043 <私に絵をかかせるもの:景色(下)>
こんなこともある。認知に困難な景色を私の視覚が受信すると、それを解読しようとする。よく見るとと、それはエグい配色の広告が、バックのビルや手前の街路樹と一体化しており、なにか別なものと錯覚していただけのことだった。これも一回きりの蜃気楼のような風景だと思う。
景色には自然もあれば人工物もあるし、過去もあれば未来のものもある。目に見える場合も見えない場合もあるし、温度や天候や季節や気分も関係する。見たことも無い風景さえ勝手に自分でこしらえてる。それらを箱庭のように愛でる。何度も何度も愛でる。
景色は誰にとってもリアルな素材というわけではない。しかし景色を描く快感は、私にとってはリアルだ。だから文句は言わせない。全部が絵の中で生きてゆくから、好きになったら描くのだ。好きになった者だけがその景色に出逢うのだ。
単に小さかったから、そう見ただけでなく、自分のなかで育っていく何かが、保育園の遊び場にはあったんだろうな、と思います。
<freebirdさんへ>
子どもの視野は意外に狭いのでは。
狭いフレームから溢れ出る外界物の大きいこと!
私にも経験があります。
保育園も遠かったし、広かった。きっといい景色だったことでしょうね。