923 <いなす季節>
子ども時分に夏になると、近所のおじいさんが家の前の道に簡易ベンチを出して、ステテコ・シャツ・腹巻き姿でうちわを仰ぎながら、通りを行く人たちと談義をしていました。昭和な姿ですね。そのベンチにはいつも熱いお茶が置いてあって、汗をかきながらおじいさんはズズーッとすすっていたものです。子供心に、冷えた麦茶を飲んだ方が絶対美味しいのに、といつも思っていました。
二十代の会社勤めの頃、私は営業をやっていました。暑い日中、よく喫茶店でアイスコーヒーを飲んだことを憶えています。たまに営業の上司と一緒にお店に入ると、その人は決まってホットコーヒーをたのんでいました。この暑いのに、なぜ熱い飲み物を飲むのだろう?といつも不思議でなりませんでした。暑い季節には、飲み物は冷たければ冷たいほどありがたいに決まっている。私はそう信じて疑いませんでした。
しかし今の年齢になって、よくわかります。幾ら夏でも、人の身体は、冷えた飲みものをそう多くは望んでいないことを。熱い飲み物を入れてやると、冬だけでなく夏でも、身体も気持ちも落ち着くことを。海水浴へ行き、スイカを食べ、クーラーを浴びて、冷たいドリンクをガブ飲みする、真正面から夏にぶつかるような過ごし方を、いつの頃からかやらなくなりました。夏は今の私にとっては、いなす季節になったようです。