カテゴリ:音楽えかきむし( 87 )

私は音楽は好きでも聴くばかり。自分で演奏したり歌ったりしない人である。楽器はなにもできないし、歌といえば風呂でがなるぐらい。知り合いにミュージシャンが多く、彼ら彼女らが音楽で会話する様を目にすると、羨ましいのを通り越して不思議な光景を見ている気になる。よくもまあ、人前であんな難しい意思疎通ができるものだ。そしていつも思う。音楽家が音楽を奏でるように絵を描きたいと。どうやったらいいのかもわからない。とりあえず、まずは鼻歌かな(笑)。久々のつぶやき音楽録はVol.5です。

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f0201561_19494330.jpgシリータ『シリータ』
先日見たフランス映画『サンバ』での「トゥ・ノウ・ユー・イズ・トゥ・ラヴ・ユー」に心が燃えて、思わずCDを引っ張り出した。全編スティーヴィー・ワンダー主導で、1972年作『心の詩』と表裏をなす内容。初婚の相手シリータの、小鳥のようなか細い声はいかにもスティーヴィー好みで(デニス・ラサールしかり、ミリー・リパートンしかり)、スモーキーやビートルズのカヴァーもいいが、やはりソウルフルな「トゥ・ノウ~」のイントロのエレピが最も痺れる。彼は何故この曲を自分のアルバムで演らなかったのか?おそらく『インナーヴィジョンズ』の「神の子供たち」に姿を変えたのではないかと思われる。


f0201561_19502633.jpgバッドフィンガー『WISH YOU WERE HERE 』
マネージャーやレコード会社との不幸なトラブルや、リリース後のピート・ハムの自殺と共に語られることが多いアルバムだが、最高級の音楽が目一杯詰まっている傑作。どの曲もメロディラインが芳醇で美しく、何度聴いても胸に突き刺さってくる。いい状態で創作をさせてあげたかったバンドの筆頭。あれからもう40年も経ったのか…






f0201561_1950431.jpg島田歌穂『MALACCA』
誘う力が相当に強いトータルアルバム。その理由は、プロデューサーの久保田麻琴が、精通したアジアン&ブラジリアン・テイストの世界を丁寧にこしらえているからだと思う。島田歌穂も余裕を持って唄い遊んでいる。彼女の歌唱表現には、迷いとか逃げるような小細工が一切ない。長いキャリアからくる自信なのだろう。どの曲も高水準で安定感があって、とても落ち着く。ライナーを読まなかったら、18年前の作品だとは到底思えない。





f0201561_19505959.jpgディー・ディー・シャープ『ハッピー・アバウト・ザ・ホール・シング』
この人は唄が滅茶苦茶に上手い。曲は旦那のケニー・ギャンブルの肝入りだけに、コクがあって聴き応え充分。編曲といえば全盛期のフィリーに外れはない。まさにゴージャスなムードに包まれたベストな一品。ここまで売れる要素の揃った作品が大衆に受け入れられなかったのは、一体どこに計算違いがあったのだろうか。ポピュラー音楽の難しさ、不可思議さを感ぜずにはいられない。





f0201561_19511527.jpgネヴィル・ブラザーズ『ブラザーズ・キーパー』
1990年作。リアルタイムで聴いた時も今も、変わることのない出来映えに唸る。次作からシリルの露出が増え始め、アートは年齢的に大人しくなってゆくだけに、兄弟四頭体制の好バランスがもたらす安定感が心地いい。ゲストの好演も素晴らしい。「サンズ・アンド・ドーターズ」はリプライズとともに、ソウルフルで鳥肌もの。当時「バード・オン・ワイヤー」を売れ線狙いと書いた評論家がいたが、誰だったかも忘れた。生きてゆくのは作品であって、冷やかし言葉ではない。




f0201561_19512634.jpgリトル・フィート『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』
ベスト盤。無視されがちな1stからも2曲のみしっかり収められていて好印象。ただ、半数以上の選曲が重なるライブ盤『ウェイティング・フォー・コロンバス』との聴き比べで、スタジオ録音ではいかに曲の魅力が伝わっていなかったかが、どうしてもはっきりと出てしまう。曲はいいのだが、演奏のダイナミズムがこじんまりと小さくまとまった印象がしてもったいない。逆にライブになると、音の活きの良さとか、ノリ、曲のスケールが豹変してしまい、全く別物になってしまうバンドだった。お客を前にすることが、それだけの劇薬になっていた証だと思う。



f0201561_19514267.jpgジェイムズ・ブラウン『Get on the Good Foot』
先月今月と、ほんまによぉ聴いたわ、このCD。今年の夏のヘヴィローテNo.1やで。72年のJB初のスタ録オンリーの2枚組アルバム。構成が練りに練られとる。JB’Sも面子演奏ともに脂のノリが凄いし、ゲストもバーナード・パーディやらブレッカー・ブラザーズやら豪華やで。ええ曲多いし、バラード最高やわ、再録ナイスやわ、ユーモア抜群やわ、JB流の娯楽が一杯詰まっとる。そこにJBのあの声と唄や。ギターのカッティングだけであんだけ唄えるシンガーて、他におるんかな。こんなよおでけた作品を「2枚組LPの意味ない」とか言うてた評論家が昔おったけど、あいつ何聴いてたんやろか?



f0201561_19515758.jpgイ・プー『ARESSANDRA』  
CBSシュガー移籍後2枚目のアルバム。前作録音終了後に、ドラムス担当のヴァレリオ・ネグリーニが作詞に専念するために、グループを脱退しました。後任はステファーノ・ドラッツォ。彼の加入がもたらしたドラミングはプ-の歌を核とするサウンドに大きく寄与しており、本作が前作から一段高いところへ到達できた要因になっています。その他のメンバーやスタッフに変化はなくリード・ヴォーカル&ベースがリッカルド・フォッリ、ヴォーカル&キーボードがロビー・ファッキネッティ、ヴォーカル&ギターがドディ・バッタリア、プロデューサーにジャンカルロ・ルカリエッロ、アレンジャーにジャン・フランコ・モナルディ、エンジニアがグァルティエロ・ベルレンティーニ、アシスタント・エンジニアにフランコ・サンタマリア、といったところです。アルバム・タイトルにもなっている、ロビーの愛娘アレッサンドラを配した有名なジャケット・フォトはエギズィーオ・ファブリッチ。メンバー・チェンジに負けないくらい大きな変化に、ム-グ・シンセサイザーの導入が挙げられます。当時のポップ・ミュージック・シーンの革新的な楽器だったム-グをいち早く取り込んだことで、本作のプ-の(特にロビーの)表現力が飛躍的に向上したことは、2曲目の「愛のルネッサンス」を聴けばよくわかります。ここではまだ小手先程度でしかないこの楽器ですが、後のプ-にとって最大の武器となっていきます。ム-グがデジタル系につながる新生面だとすれば、アナログ系の新生面は32人編成のオーケストラの起用だと言えるでしょう。前作でもオーケストレーションはふんだんに盛り込まれてはいましたが、今回のアルバムの裏ジャケットや見開きに写った大編成の弦楽器隊+管楽器隊は、「オペラ・プリマ」以上の質が明らかで、プ-とオーケストラ・メンバーとの共演作といっても間違っていないのでは。そのブリッジにフランコ・モナルディの存在価値があったのでしょう。録音は1972年春~夏~秋で、11月に発売され、その発表コンサートが12月11日ミラノのマンゾーニ劇場で40人の大編成オーケストラをバックに華々しく行われました。翌73年1月からなんと11月までアルバム・チャートにランクされ最終的に20万枚を超える大ヒット・アルバムになって、投資からしっかり元をとったわけです!またこの間、コンサート・ツアーとしては異例のミラノのスカラ座やリリーコ、バリのペトルテェリ、ローマのシスティーナ礼拝堂!、ナポリのメディテラネオなどでオーケストラとの共演をして話題を呼んでいます。
LATO A
1.ロマンの世代/LA NOSTRA ETA’DIFFICILE
まずは耳に入ってくる弦楽器の柔軟性、ピアノのクリアーな音が前作の比ではない!このイントロだけで本作の音品質はISO基準を十分満たしていると言えるでしょう。前作「オペラ・プリマ」のドサッと段ボール箱に音を詰め込んだような未整理感が消えて、 楽器と楽器の音間が適正に整理された印象を受けます。これはたぶん、前作の音質に不満を持っていた現場のレコーディング関係者が意識的に改善したものだと考えられます(レコーディング場所、エンジニア等は前作と変わっていない)。ステファーノの控えめながら歌を活かしたドラミングが素晴らしく、リッカルドを含めたリズム・セクションの向上が伺えます。ヴォーカルはいきなりリッカルド&ロビーのツイン・リードで、ロビーの発声が彼本来のものになっています。個人的に大好きなオープニングで、初めてイタリア語の歌詞を憶えた曲です(今もソラで歌える!)。
2.愛のルネッサンス/NOI DUE NEL MONDO E NELL'ANIMA
このアルバムの邦題には、ほとんど叶姉妹!みたいなのが多くて昔友達に笑われた記憶がありますが、この曲も凄いな。アルバム先行シングルでチャート2位(年間チャート8位)を記録した大ヒット曲です。ミニ・ム-グがこれでもかと使われていて、オーケストラと対をハッていますが、フランコ・モナルディのアレンジ力がなんといっても卓越しおり、素材としてのメロディーのパワーを飛躍的に拡大させています。録音は72年4月~5月。日本の全てのプー・ラヴァーにとって最も重要な作品といってもよいかもしれません。74年にCBSからプーの日本での初めてのシングルとして発売されたからです(「ミラノの映像」とのカップリング)。その頃のポップス・ファンはどう思っていたのでしょうか?今聴いてもさほど古いとは感じさせない、一種の普遍性がこの曲には宿っています。
3.青春の哀しみ/MIO PADRE UNA SERA
イントロのアコースティク・ギタ-の使い方が前作にはなかったパターンで、75年のアルバム「ロマン組曲」に収められている「地中海の伝説」はこの曲から発想を得たのではないでしょうか?そのくらい酷似しています。と同時にロビーの独壇場と言える仕上がりになっています。ム-グの遊び具合や伸びやかに舞い上がってゆく彼のリード・ヴォーカルは、本アルバムではバンドとしての新生面ですが、のちのプ-本来のプロトタイプになっていく要素です。リズムのパンチもやはり「オペラ・プリマ」とはかなり差がありますね。
4.初めての恋人/NASCERO CON TE
このアルバム中最もお気に入りかなぁ。72年4月の録音でステファーノが加わって初めて録音された曲です(「愛のルネッサンス」のB面に収録)。第二小節へ向かう際のハイハットはどう考えてもヴァレリオにはなかったもので、ドラミングのキレの良さがクリアーな音質と相まって実に効果的。テナーをリッカルド、ソプラノ~ハイ・トーンはコーラスというヴォーカル編成ですが、メロディーが素晴らしい!(凝ったことはそんなにやっていないのに密度の濃いこと!)またアルバム全編に言えることですが、ストリングスによるフェイド・アウトで閉めるエンディングがほとんどで、まるで映画の余韻を一曲ずつ味わうかのような錯覚に陥ります。曲の終わりまでを惜しむように聴いたものです。アレンジャーというより音楽監督というほうがモナルディには合っています。そうそう、82年のライブ・アルバム「パラスポルト」のD面での懐かしのメドレーでこの曲を演ってくれた時は本当にうれしかった!あの感激は今も忘れられません。
5.大人の遊び/IO IN UNA STORIA
また出た!叶姉妹的邦題(笑)。ドディが作曲を手がけた初めての作品(作詞はもちろんヴァレリオ・ネグリーニ)。ヴォーカルもドディがとっています。派手さはありませんが、2台のアコースティック・ギターと1台のエレクトリック・ギターのコンビネーションは安定感があり、たぶんドディがレコーディングの主導権を握っていたとおもわれます。ドディの作品はロビーとはまた違ったポップなメロディーを持っていて、大作よりも小品で力を発揮する傾向が後々明らかになりますが、ここでの佇まいもひっそり収められているといった印象ですね。当時のイタリアで流行していたカンタウトーレたちに影響力があったであろうCSN&Yの音作りが垣間見える曲で、ニュー・トロルスなんかにも似たようなギター・アレンジメントをしたナンバーありました。
6.風のコンチェルト/COL TEMPO,CON L'ETA'E NEL VENTO
重厚なイントロですがリッカルドの表現に抑制が効いているうえ、フルートが曲の体温を下げているので暑苦しくならない、前作と本作との違いが顕著にわかる曲です。陽光を表現したホーンとフルート、ピアノの一音一音の艶やかさ、控えめながら歌を生かすサポートに徹したリズム・セクション、全てが上手いの一言です。「オペラ・プリマ」でもそうでしたが、アナログ・レコードのA面ラストということでB面へのつなぎを十分配慮したエンディングも素晴らしい!リッカルドのビブラート唱法から続く力強いコーラス(ステファーノもきっと歌っている)、そして4人の声と重なりながら引き継ぐようにオーケストラのスケールの大きいサウンドがどんどん高みに上ってゆくこの終わり方はジャン・フランコ・モナルディのアレンジの傑作と言えます。
LATO B
7.季節の終わり/SIGNORA
歌詞の内容が結構意味深いロビー、ドディー、ヴァレリオによる初めての3者共作品。この曲に限らず、アルバム全体に過ちに対する後悔の念が支配する精神状態をテーマにした詩が目立つヴァレリオ・ネグリーニでした。何かあったのでしょうか!?イントロのフルートはアナログB面の新しい展開を予感させ、冴え渡るコーラスが決めを作るところはもうイ・プーの定番の趣さえあります。定型のロック・バンドなんかの場合、ギター・ソロがクライマックスでよく割り込んできてブレイクさせることがありますが、このアルバムのプーの場合それがコーラスで代用されています。自信あったんだろうなぁ、ユニゾンなんて軽い軽いとか…。
8.青春に目覚めた頃/COSA SI PUO'DIRE DI TE?
先行シングル第2弾でチャート7位まで上がりました。ロビーがリード・ヴォーカルをとる曲がやっとシングルで出てきました。やっぱりヴァレリオの歌詞に実際に曲をつける(もしくはその逆)人が歌うだけに、メロディにのる歌詞の表現が絶妙ですね、ホントに。これにステファーノのゆるやかで撫でるような太鼓と、モナルディ的なロマンティシズム解釈が加わるわけで、この公式を誰より早く見抜いていたであろうプロデューサー、ルカリエッロはさぞかしご満悦だったことでしょう。余談ですが、同年にツアーした南米で買った4本のギターがここでは使われているとか。ふ~ん。(また御多分に洩れずこの曲もスペイン語ヴァージョンが制作されています。)
9.夜を終わらせないで/VIA LEI,VIA
「オペラ・プリマ」に少しだけあったビート・グループの匂いがこの曲にも少々残っています。ドディが本当は弾きたかったであろうロック然としたギターも顔をのぞかせています。ピアノ+アコースティック・ギターのコラボレーションがお見事です。また楽器でいえばリッカルドのベース・プレイはこの曲がベストではないでしょうか?ベースの音がよく拾えているので彼も弾きがいがありますよね。ベーシストとしてだけでも十分やっていけるような気がしますが、どんなもんでしょう?
10.愛の後に美しく燃える君/DONNA AL BUIO,BAMBINA AL SOLE
叶姉妹風邦題第三弾!しっかしいったいどこの誰がこんなタイトルを付けたんでしょうな?曲風から感じ取れるイマジネーションの貧困さを露呈していますよね。イ・プーにまつわる偏見の一端を業界関係者が演出していたとしか考えらない犯罪的な邦題だと僕は思います(激怒)。オペラ・プリマ的誇張アレンジが少し耳につきますが、そこはなんといってもリッカルド十八番の囁きヴォーカル・ナンバー。彼の持つアイドル性を生かすような起伏のある構成が曲のアクセントになっています。実に自然な転調とリズム・チェンジ、ムードといいドラマ性といい、前作の流れを丁重に洗練させた作品です。リッカルドを中心とした、グループとしての声が武器であることをモナルディーも十分わかっていたのでしょう、ここで聴かれる高音のハーモニーとピアノそれにストリングスが奏でる柔らかさとやさしさ。こんなサビは何分聴いても飽きが来ないものです。人をどこかへ連れていってしまう力、どこかで見た情景を引っ張りだしてくる力が曲にあるからでしょう。もしリッカルドが脱退せずにいたら、こういったリッカルド色の強い曲をいつまでも演り続けていたかどうか?と問われたらあなたはどう答えますか?
11.想い出の部屋/QUANDO UNA LEI VA VIA
87年に出たライブ・アルバム「good-bye」での再演で改めてこの曲の良さ、特に不滅のメロディー・ラインの底力に感服した人も多かったのではないでしょうか?プ-としては珍しい構成とリズム・パターンを持った作品で、再びリッカルドのTU~という囁くような一音で始まります。コーラスが前作と比べ格段に洗練されて上手くなっていますね。やはりどこかアメリカナイズされた印象が大。エンディングはオーケストラの洪水でフェイド・アウト。こんな曲ってどうやって作るのでしょう?どうやってリズムの落し所をバンドとオーケストラとで合わせるのでしょうか?たぶん凄く手の込んだ作業だったのではないでしょうか。それだけの成果は、今なおこの曲が生き続けているという事実に証明されていると思います。後のベスト・アルバムにも収録された隠れた名曲です。
12.ミラノの映像(愛のイマージュ)/ARESSANDRA
こちらは表だった名曲です。7分弱の長尺バラード・ナンバーですが、聴かせ所が多く長さを少しも感じさせません。流れとテンポにおおらかさというか余裕があって、聴いていてとても落ち着きます。娘の名前をタイトルにしたまでの愛情が全編に憎いまでに溢れかえっていて、その上から豊穣なアレンジが施されている、ある意味で完成型の作品でしょう。こういった美意識を茶化す人もいるんだろうけれど、本当にいいものはいいのだから仕方ないのです。「オペラ・プリマ」の場合もそうでしたがアルバム・タイトルにしてラスト・ナンバーという締め方と、ドラマチックな幕の降ろし方はもうイ・プ-の専売特許。レコードを買って得した気分になったものでした。この演出がファンにとってはたまらないのでは。ホーンの絡みも美しいサビが繰り返され、残念ながらアルバム終了となります。


f0201561_19522581.jpgマーヴィン・ゲイ『M.P.G.』
1969年作。ソロ&デュエットで、大ヒットシングルを量産していた時期の作品。前年のメガヒット「悲しい噂」で知れ渡った三種類の声を駆使した歌唱法が、ここでは完成形になっている。アルバムとしては典型的な60年代ソウルの作りで、ヒットした3曲以外はちょっと苦しい。マーヴィン・ゲイにとって、モータウンのベルトコンベア式生産体制の乗っかった最後のアルバム。その後しばしの隠遁を経て、二年後に『What's Going On』で帰還することに。この二枚の落差たるや、なんと大きいことか。




f0201561_19523785.jpgV.A 『 ニュー・オーリンズR&Bヒット・パレード  ガンボ・ヤ・ヤ』
アラン・トゥーサン旅先にて死す。昨日のニュースは世界中を駆け巡り、多くのニューオーリンズR&Bファンを悲しませたことだろう。1987年だったか88年に、こいつを手に入れて、繰り返し聴いたなあ。盤のライティング・クレジットを見たら、片っ端からアラン・トウサンと書いてある。なんていい曲を書く人なんだと痺れたものだ。トウサンではなく、トゥーサンと呼ぶのだと、中古レコード屋のオヤジに教えてもらった、阿呆な私だった。よき伝統を受け継いで、新しい時代への扉を開いてみせた音楽家よ、貴方の人生は長かったのか、それとも短かったのか?、最高の夢を見させてくれて、ありがとよ。少しだけ 寂しいぜよ。



f0201561_2053714.jpgキンクス『did ya』
1993年の来日記念5曲入りシングルCD。タイトル曲は91年作で、かつての大ヒット作「サニー・アフタヌーン」をなぞるコーラスが、ファンの間でだけほんのちょっと話題になった。レイ・デイヴィスの表情豊かなヴォーカル七変化が味わえる一曲。三曲目は68年のシングル「Days」のリメイク。新曲ありきのキンクスにしては珍しい。96年のレイのソロ来日時にはステージ進行の流れから「Daze」と皮肉って表現されていた。五曲目の「Look Through Any Doorway」はデイヴ・デイヴィス久々のナイスなメロディが詰まった一品で、抑圧感や閉塞感が満載だった93年作『フォビア』に収められなかった理由が知りたい。作風が違うからだろうか。問題は四曲目「New World」。たぶん89年「U.K. ジャイヴ」の「アグリヴェーション」を膨らませた曲で、キンクスでは初めて聴く打ち込みサウンド。パソコンで作ったのではないだろうか。驚くのは歌詞内容だ。
朝目をさまし、通りを見下ろすと
重大な事態が起こっていた
決して偶然じゃない
戦争は終わった
だが戦いは始まったばかり
これからも続いていくだろう
なぜなんだ
大量の移民の群れ
リトアニア、アストニア、チェコスロヴァキア
ポーランド、欧州大陸の各地から難民が流出する
すべてが自由の地アメリカへと向かう
すべてがアメリカの大都市へと向かう
都会の暮らしが僕を圧迫し始めた
みんなが押し合いへし合い
そこらじゅうで事態は悪くなるばかり
酷くなるばかり
見てみなよ
ああベイビー
どこまでいくんだ
どこまで悪くなるんだ
それは50年前に
 50年前のある時
 この事態は始まった
 そして今も続いている
1993年(もしくは1989年)時点での難民問題を取り上げ、EUへの懸念を歌っている。社会の閉塞感は今と酷似する。レイ・デイヴィスのジャーナリスティックな視点はそれまでにも評価・指摘をされていたが、2015年の今となっては、彼の想像を遥かに越えて世界の政情不安が悪化していると言わざるを得ない。曲中のカウンドダウンがドイツ語という段になると、あまりの読みの鋭さに呆気にとられる。5曲で18分26秒とお手軽でも、的は外さず毒抜かず。つまらん大手新聞以上に中味の濃いキンクス版号外。


f0201561_19532535.jpgV.A.『チャンプルー・シングルズVol.2~平和の願い(戦争と移民)』
バラエティに富んだ内容で娯楽色の強かったVol.1に対し、本作は沖縄の大戦と社会事情を直視した選曲で占められている。16曲を通しで聴くとかなりヘヴィだが当然だろう。沖縄芸能の唄者たちが歴史の語り部となって、悲劇を後世に伝えようとしたドーナツ盤のオムニバス集なのだから。特に金城実の「PW無情」の物悲しさには言葉を失う。発売当時はまだ現役バリバリだった唄者たちの多くが鬼籍に入ってしまった。辺野古闘争が燃え盛る今、耳を傾ける意味と重さを持つ一枚だと思う。




f0201561_19535915.jpgスティーブン・スティルス『マナサス』
このアルバム、大好きで素晴らしいのだが、更に良くなっていたはずだという気がしてならない。これまでのグループやトリオ、カルテットでの、曲数などの制限付きの制作とは違い、やりたいことをやりたいメンバーで思いっきりやってしまった結果、妙に解放され過ぎて、本来はコンパクトにまとまっていたはずの曲の魅力が、冗長に流れ真空パックされ損なった感がある。もったいない…。当時の彼は、自分の持ち味を、徹底的に吐き出さなければならなかったのだろう。そう考えると、スティーブン・スティルスの音楽性にどっぷり浸れる作品であることには間違いない。
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60年代~70年代~80年代と進むに連れて、モータウンのレーベル色は薄まっていった。70年代半ばに、私が初めて接したモータウンのミュージシャンだったスティーヴィー・ワンダーや、テンプテーションズ、ジャクスン5、マーヴィン・ゲイ、コモドアーズ、ダイアナ・ロスは、創作においては、60年代に比べればある意味で縛られるものがない活動をしていた。にもかかわらず、長い実働期間があったにせよ、瑞々しさや輝きは格段に落ちていた(当時はそんなことには気付きもしなかったが)。ライオネル・リッチーやディバージ、リック・ジェイムズが気張っていた80年代となれば、もうキラピカドンシャリのバブルやヤッピーの価値観が反映されていて、とてもではないがついてゆく気がしなかった。


規制とか足かせのような不自由さがあると、創作者はそれをイマジネーションで乗り越えようとして、ある種の団結も加わり、作品はより豊かな膨らみや、思いもよらないパワーを持つことがある。社会や会社自体に大きな枠組みで制御されていた60年代モータウンがまさにそれだった。70年代に入って個々のミュージシャンが権利主張をし実現し始めると、モータウンというレコード会社自体の色気はひとたまりもなく分散していった。まさにレコード会社としての魅力を喪失している最中に、私はモータウンと出会ったのだろう。80年に入って相次いで出された二枚組L.P.のベストもので、過去のモータウンサウンドがいかに素晴らしいかを知り始めたのだが、とき既に遅しを直感したものだった。


80年代初頭は、往年のモータウンサウンドのリバイバルヒットや、影響というよりも全くのコピーのような曲が数多く出回っていた。特に英国では当時の時流だったようだ。そういうのを聴いて、本家の良さと比べて、ただただ軽薄さを感じた私が、流行の音楽からどんどん取り残され、80年代の終わりにはレコード棚の中には古いブラックミュージックのものしかなかったのは、今思うと当然だった気がする。モータウンに代表されるようなソウルミュージックに心を惹かれたと書けば聞こえはいいが、その実、私は同時代性を失い路頭に迷う哀れなリスナーでしかなかった。そんな男にとって、古き良きモータウンサウンドが大いに慰めになったのは間違いない。


89年だったか、来日していたテンプテーションズの故メルヴィン・フランクリンはインタビューでこんなことを語っていた。「60年代初頭に、デトロイトで大規模な暴動が起きて、あの街は犯罪都市に傾いていった。それまでは、夜寝るときでも鍵をしなくてもよかった。網戸だけで充分だった。」ビジネス上の理由があったかもしれないが、失業が増え、貧困地区が広がり、街に犯罪が多発していったことと、モータウンがL.A.へ移転したことは無関係ではなかっただろう。破産したデトロイトが手に入れた何かがあったとすれば、失った何かもあったのだろう。モータウンレコードはそのひとつだったのかもしれない。


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移転するまでの13年間のレーベルの経営本部と録音スタジオのあったヒッツヴィルU.S.A.。現在はモータウン歴史博物館となっているそうな。当の会社に見捨てられた建物が、デトロイトで最も観光客が訪れる観光名所となっているのは、なかなかキツい皮肉だ。
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モータウンがレコード会社として、どの辺りまでクリエイティヴに機能していたのかは、人によって意見が異なるだろうが、1980年代初頭にはもう役目は終わっていたと思う。今世間でいうところのモータウンサウンドとは、1962年~67年あたりのヒット曲を指している。同時期のスタックスやアトランティックのサザンソウルと比べると、軟弱でソウルとポップミュージックの重なった味がする音楽を得意としていた。作家/歌手/演奏者/プロデューサーといったレコード製造ラインが人的に確立され、画一的な音楽を大量に販売する手法は、いかにもアメリカ的であり、低コストの品を量販し消費欲を煽るところなどは、現在のマクドナルドのような企業とよく似たことをやっていた。


この会社のおもしろいところは、実体がほぼ消えた頃から絶えず話題を提供していることだ。1983年にはモータウン25周年でのコンサートがあり、1985年には名手ネルスン・ジョージが60年代のモータウンヒストリーの決定版『WHERE DID OUR LOVE GO?』を書いた。(モータウンから全く協力も得られなかったからこそ、最高に面白いドキュメンタリーになっている。)1989年出版のジェームズ・ジェマーソンの謎を追ったアラン・シュラツキー著『STANDING IN THE SHADOWS OF MOTOWN』はその後、2002年にデトロイトとファンクブラザーズの視点から見たモータウンを描いた映画『永遠のモータウン』となったことは記憶に新しい。


モータウンの内実がはほとんど明かされないまま、1988年にベリー・ゴーディ・ジュニアは会社を身売りして隠遁し、表に出てくるのは主に弁護士だけになった。だから人々は推測するしかなかった。当事者だったミュージシャンたちにもよくわからないことだらけだったようで、スティーヴィー・ワンダーでさえ1971~2年の契約時の出来事の回想インタビューを読むと、一体どこまで事情をわかって行動していたのか疑問に思うぐらいだ。裁判沙汰も多い。H-D-Hとの印税に関する裁判は、始まってからもう40年からなるのに、まだ結審がついていない。(彼らのモータウンでの実働はわずか5年であるにもかかわらず。)人の一生を考えたときに、時間切れは目の前に迫っているだろうに。


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確かに映画『永遠のモータウン』は得心のゆく内容だった。映画館最前列で見て、最初っから最後まで泣きっ放しだった。しかし本心を言えば、「1980年に制作が着手されていたら」と思ってしまう。それだけ80年代には、モータウンを音楽的に支えた要人の逝去が続いたわけだ。
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去年の夏、アメリカのミシガン州デトロイトが財政破綻した。私が小学校の頃、家にあった百科事典には、デトロイトは世界の自動車産業の都であり、米国の工業力のシンボルだと書かれていた。破産した折にリック・スナイダー・ミシガン州知事は「60年にわたる衰退を食い止めるときが来た」と語った。60年前と言えば、1950年代半ば。デトロイトの人口は180万人(1950年の統計)を数え、自動車産業が多くの労働人口を受け入れており、米国有数の大都市だった頃のことだ。要するにこの街は60年間衰退し続けて、2014年7月18日に息の根が止まったのだ。市は連邦破産法9条の適用を申請した。負債総額はおよそ180億ドル(約1兆8000億円)。米国の自治体としては史上最大規模の財政破綻だった。
 

このニュースを知ったとき、レコード会社のモータウンのことを思い出した人は多かったのではないだろうか。モータウン社は1971年にL.A.に移転するまではデトロイトに本社があり、数多くのタレントや裏方の雇用を作り出していた。社名がモーター・タウンを語源としていることや、社長だったベリー・ゴーディ・ジュニアが若い頃に、実際にG.M.の下請けで働いていたことなど、モータウンとデトロイトには浅からぬ関係がある。何より音楽や自動車といった若いアメリカの夢を売りにした産業を育む土地柄が、デトロイトにはあったのだろう(それと同じだけの繁栄の闇も)。市が破綻したことで、モータウンが栄華を極めた1960年代は、一層人々の間で美しく語られたことだろう。


モータウンは今も実在する企業だが、大手のエンタテイメント・カンパニーの傘下に入っている子会社の一つでしかない。音楽ファンにとっては、1960年代~70年代のソウルミュージックを連想させる。1961年生まれの私が、1960年代の黒人音楽を知るはずもなく、モータウンという個性の企業を知ったのは1974〜5年のことで、その時分にはモータウンは極普通のレコード会社の印象だった。黒人経営による会社といっても、60年代のような特徴的なモータウンサウンドといったものは70年代には失われており、マーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーといった個々のタレントが独自の音楽を作っている、その発売元といった感じだった。

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デトロイトのとある倉庫。こんなのに似た建物を、日本全国で見ることが出来る。無頓着に建てられて、無責任に捨て去られて。そのうち普通の一軒家で、この手の幽霊屋敷がごまんと出現するだろう。人口の減少とは、廃墟の増加と同義語だ。
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つい先日B.B.キングが亡くなりました。少し前にはベン・E・キングが、そのちょいと前にはパーシー・スレッジが、加瀬邦彦が、シーナが、イアン・マクレガンが…馴染みのミュージシャンたちが、もうどんどんいなくなってゆきます。だからといって私に何ができるでしょう。残ってゆくのは作品だけで、生身の人間は消えてゆく。それをわかって繰り返し聴いては、何かしらをつぶやくのでしょう。人によってはアルコールを片手に、人によってはため息を伴って。
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f0201561_12382449.jpgトム・ウェイツ『娼婦たちの晩餐』
前作に引き続きボーンズ・ハウのプロデュース。評価されることの少ないアルバムだが、聴き応えが大いにある。正真正銘のライブだとばかり思っていたが、実は関係者を呼んで、レコーディングスタジオを酒と煙草と喧噪の安酒場に仕立てて録音したらしい。どうりで新曲ばかりなのに進行がスムーズだし、妙な野次も聞こえないはずだ。後にトム・ウェイツが全く飲めない男だと知ったとき、なにか納得できるものがあった。




f0201561_123842100.jpg鈴木亜紀『Blue Black』
顎に一発食らった感じのライブを体験して好きになった。基盤は唄とピアノの確かさ、それにジャンルをものともしない個性が乗っかっている。根付くことを良しとしない旅人の視点をテーマに据え、聴き手の安住にじんわりヒビを入れてくれるアルバムである。どうやらボディにも、かなり効果的なのを入れられたようだ…






f0201561_1239923.jpgサム・クック・ウィズ・ザ・ソウル・スターラーズ『ゴスペル・トゥ・マイ・ソウル』
ほぼ年代順に曲を配置したコンピもので、ベスト盤ではない。初聴きのテイク違いもあれば、L.A.シュライン公会堂での有名な長尺ライブ「ニアラー・トゥ・ジー」も挿入!1950年代の熱きコスペル最前線が味わえる。日本最強の黒人音楽アナリストと評判も高い鈴木啓志氏の手によるコンピレーションも、ジャケが相当ショボいよ〜??




f0201561_12393645.jpgポール・バターフィールド・ブルーズ・バンド『ザ・リジュアレクション・オブ・ピグポーイ・クラブショウ』
前作の『イースト・ウエスト』は一度聴いたら耳から離れなかったが、本作は何回聴いても曲が憶わらない。1967年にして、ホーンを備えたバンドアイデアは斬新だっただろうが、如何せんオリジナル曲が今二つ。ブルームフィールドがいなくなった途端、カバー曲もインパクトが消えた。内容は下り坂と見るが、チャート的には彼らのベストだった。音楽は数字では表わせない。




f0201561_12395873.jpgザ・バンド『ムーンドッグ・マティーニ』
何を隠そう、ザ・バンドで最初に好きになったレコード。ここで初めて聴いた曲のオリジナルを追いかけて、R&RやR&Bの世界と接点を持ったようなものだ。まさしくカヴァー・アルバムの思惑のとおりに動かされた初心なファンでした(笑)。特にニューオリーンズものなんて、本作が完全な出発点だった。チターなしの「第三の男」だけはピンと来なかったが。素晴らしいアートワークのジャケットにも大いに心を動かされた。久しぶりに完コピしたくなったぞ!




f0201561_12401964.jpgジュニア・ウォーカー&ジ・オールスターズ『グルーヴィン・ウィズ・ジュニア』
バチもんCDなので、たぶん探しても売っていないと思う(笑)。モータウン後期のヒット曲は未収録だが、初期のガットバケット・ホンキー・サックスが目一杯聴けるし、なんといってもソウルフルなあの声!スティーヴ・ウィンウッドのVoって、レイ・チャールズ似というよりも、ジュニア・ウォーカーそのまんまという気がする。モータウンには珍しいバンド編成のグループで、ファンク・ブラーズがあまり介入していない。そのせいか、ノーザンソウルなのに泥臭くて心がざわめく。特にヴィック・トーマスの教会風のオルガンはとてもいい。

f0201561_12403371.jpgフォー・シーズンズ『SHERRY & 11 OTHERS』
映画『ジャージー・ボーイズ』を見てからよく聴いている。デビューアルバムだが、今は売っていないようで、映画や舞台が良い機会になってほしいが、やっぱりフォー・シーズンズの扱いは昔と何も変わっていない気がして、寂しい限りだ…。ヴァリを筆頭に、プロのキャリアが10年弱はあるメンバーらだけに、デビューアルバムとはいっても、もう完成品である。カヴァー曲に顕著なヴァリ節が素晴らしい。唄の品格がもう別物です。




f0201561_12404973.jpgあがた森魚 『俺の知らない内田裕也は俺の知ってる宇宙の夕焼け』
曲が時空間を自在に移動して、聴き手のイメージを止めどもなく喚起させる、あがた森魚60歳のアルバム。夥しい地名や固有名詞が散りばめられ、聞いたこともないライムが頻発する。引き出しの多い音楽性と強力なイントロ、そしてVo.の力。老いと無縁の人とは、まさに彼のことだ。遊べる人にはとことん楽しい、創作力の勝利のようなアルバムだと思う。





f0201561_1241568.jpgブッカー・T&ザ・MG's『Hip Hug-Her』
文句無しのファンキーインストが少なくとも4曲はある。メンバーが出しゃばらず、引いたセンスの良さには脱帽する。当然ブッカー・Tの鍵盤が主役で、曲によってはアル・ジャクスンのどっしりドラムがメインになっている。スティーヴ・クロッパーの出番は驚くほど少ないにもかかわらず、決して埋もれない。カッティング・レベルの低さだけが難だな。あ、それとジャケがまるでフレンチポップスみたい(笑)。




f0201561_124119100.jpgアイズレー・ブラザーズ『3+3』
オリジナルもカヴァーも全てアイズレー節で塗込まれておる。マーゴレフ&セシル初参加で、CBSでの一発目とくれば、気合いが入らないわけがない。今回聴いて思ったのは、アルバム一枚を繋ぐように聴かせてゆく曲間の微妙な間合い。当時のスティーヴィー・ワンダーのアルバムから着想を得たかな。タイトルとは裏腹に、演奏陣にブッダ時代からの助っ人が加わり、アルバム全体のふくよかさに大きく貢献している。私見ながら、75年に真の3+3体制になってからのアイズレーズは、意図的に懐を浅くして、奥行きを消しにかかった。セールスは上がったが、音楽は痩せてしまった。


f0201561_12413551.jpgロビー・ファッキネッティ『Fai Col Cuore』
昨年21年振りにソロアルバムを出したロビー。彼の93年のセカンド・ソロ・アルバムで、イ・プーの音楽性をよりドラマチックに、より重厚長大に、よりクドく。私がドディ・バッターリア派だからだろう、曲調にしろアレンジにしろ、もう少し抜きやバリエーションがほしいと感じる。しかしだ、それをやると、たぶんイ・プーそのものになってしまうかも(作詞も故ヴァレリオ・ネグリーニだし)。




f0201561_12415380.jpgビューティフルハミングバード 『HIBIKI』
繊細かつ真摯、強引さを排除した訴えは痛くて儚げで、好き嫌いが大きく別れそうだが、絶大な支持があるとみた。どの曲も目の前の景色が大きく広がってゆく印象があるのに、品の良い小品の佇まいをしている。不思議だ。か細くもしぶとさを感じる声に、『Ladys Of Canyon』の頃のジョーニ・ミッチェルを連想した。






f0201561_12421071.jpgクラレンス・カーター『This Is Clarenca Carter』
ドクターCCことクラレンス・カーター32歳にして、長年のドサ回り生活の後の、ようやくのデビューアルバム。収録12曲のうち、持ち味の明るく哀愁漂うミディアムナンバーが抜きん出ている。1967〜8年マッスルショールズはフェイムスタジオという環境で、若いが腕は達者なホワイトボーイばかりのスタジオミュージシャンに囲まれ、カーターの唄は若干荒っぽいが、おそらく納得のゆくレコーディングだったことだろう。




f0201561_12422358.jpgオリジナル・サウンドトラック『小さな恋のメロディ』
先日映画を見に行って、堪らなくなって聴いてしまった。懐かしさに思い存分に浸りましたよ。全曲の歌詞がストーリーと密接にリンクして、登場人物の心情や、あらすじの俯瞰へと誘導してくれる。ビージーズのバリー・ギブのヴォーカルがまだ地声で、私が大好きな時代だ。CSN&Y「Teach Your Children」最後の締めの一行は、何と温もりに満ちたことだろう。初めてこの映画を見たのは小学生の頃で、サントラを買ったのは中学生のときだった。もう遠い遠い昔のことなのに、未だに見て聴くんだな。好きというのは、朽ちないものだね。


f0201561_1242352.jpgブラッド、スウェット&ティアーズ『3』
大ヒットした前作の模倣品?いやいや、敢えて姉妹作の佇まいを意識したのでは。キング・クリムゾンの『ポセイドンのめざめ』や、ポール・マッカートニーの『パイプス・オブ・ピース』と同じ位置付けをしたい。大学出のインテリ達が知的で洗練された演奏をする中で、現場の叩き上げボーカリストD.C.トーマスが泥臭く吠える。その対比が鮮やかで美しく機能して売りになっている。白眉は旧A面ラストの「ロンサム・スージー」で、最後の最後にトーマスの深い闇のようなため息が記録されている。毎回聴き惚れて、同じようにため息をついてしまう。
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ボビー・ウォーマックは多芸多才です。サザン・ソウルもカントリーもロックもポップスもジャズもムード音楽もサントラもやる。唄って良しギターも良し、作曲の才もあれば新しいものにも挑戦する気概もある、同業者の信頼も厚くいつも引く手多数。そんな多様な活動歴が日本ではかえって邪魔になったか、一部のソウルミュージック愛好家以外には、なかなか充分な認知が得られませんでした。しかし81年に弱小レーベルのビヴァリー・グレンから『The Poet』が出てからは、少々の変化はあったと思います。よく言われるように、この作品は往年のボビーを彷彿とさせる力作で、彼の復活を意味していました。

『The Poet』は、ある意味で保守的なアルバムです。ライナーによると、社長のオーティス・スミスがかなり予定調和風のコンセプトに則って、ボビーにアルバム作りを指示したらしい。どうりでいつものボビー・ウォーマック的な破綻が見当たらない(笑)。あくまでソウルシンガーとして、ボビーを売りたかったのでは?結果、セールス的な成功も手にした両者でしたが、やはりボビー・ウォーマックはボビー・ウォーマックでした。次作『The Poet II』(これも傑作!)はまだ社長の言うことを聞いたものの、ゴタゴタの末レコード会社を移籍してしまいました。せっかく70年代の後半の不遇を拭い去ったのに、またどうして?

その答えは85年の『Someday We'll All Be Free』にあると思う。これはボビーに内緒で会社が勝手に編集した作品です。新しいもの好き、激しい自己陶酔、統一性に拘らないバラついた選曲などは、しっかりボビー色が出ているのです。本人はカンカンに怒っていましたが。その後も、MCAでは86年に『Womagic』を出したものの、アメリカン・スタジオの盟友チップス・モーマンがレコーディングにたった二日間しか時間を取らなかったため、仕上がりが気に入らず(喉の調子が悪い)、市場に出たものの一旦回収し、翌年3曲が重複する形でその名も『Last Soul Man』というアルバムが発売されました。何とも忙しいですが、今流行の男気を地で行ってます。

商売である以上は売れたい。しかし一番やりたいことをせずに、二番目にやりたいことなんかできるか!そんな媚びない表現者の魂を、ボビーに見てしまうのは私だけではないでしょう。決して人の言いなりにならず、しかし人と上手くやってゆく処世術を若くして体得していたボビー。晩年になっても力み返ったヴォーカルスタイルを捨てたりせず、昔ながらのソウルレビュー形式のライブに拘っていました。近年はアルツハイマーや糖尿病、前立腺がんに苛まれていたそうですが、来日して元気な姿を見せていました。人生が尽きるまで、舞台活動を止めなかった心意気は、まさにラスト・ソウルマンこと、ボビー・ウォーマックの生きた証だったのではないでしょうか。

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立ち姿が年齢不詳なボビー。ソロデビューした1967年あたりから、顔の輪郭や体型はほとんど変わっていないような。こんなごっつい感じの黒人音楽家、最近はめっきりいなくなりました。
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昨年は好きなミュージシャンの逝去が多い一年でした。悲しいことに偉大なベーシストが相次いで亡くなりました。そして、ボビー・ウォーマックももうこの世にはいないのですね。亡くなったのは 2014年6月28日ですから、もう8ヶ月近くが経っているのに、私にはボビーがまだどこかで唄っている気がしています。彼があの世へ旅立った実感がさっぱりありません。享受70歳だったそうですが、もっといけるだろうと勝手に思い込んでいたのかもしれません。ラスト・ソウルマンと名高いボビー・ウォーマックの死は何を意味しているのだろう。あのがなり声がもう聴けない。なんと寂しいことなのだろう。

ボビー・ウォーマックの死に際して、いろんなメディアで「ローリング・ストーンズに影響を与えた」という常套句が用いられていました。間違いではないですが、ボビー個人の音楽的な力量を侮った説明のような気がして、私は一人で怒っていました。ただ、確かにボビーの音楽人生を簡単に語るのは難しいです。生涯一歌手であったわけでもなく、爆発的な大ヒットがあったでなく、音楽性も活動もつるんだ人脈も多岐に渡っているからです。思うに、この人はいつの時代にも、実に柔軟な音楽性で適応した人だったのではないでしょうか。いわゆるソウル・ジャイアンツと呼ばれる人たちのような、時代の中で瞬間的に目映く光り輝いた存在とは違う、60年代〜90年代の音楽時流を泳ぎ切るだけのしなやかさと持久力を持っていた人です。

出発点は兄弟でのゴスペルグループでした。そしてサム・クックが起こしたサー・レーベルでヴァレンティノスとしてデビュー、ヒット曲を連発しました。一方でギタリストとしての恵まれた才を生かして、サム・クックのバックバンドにも参加していました。サムの死後は、主にメンフィスを拠点にして、ウィルソン・ピケットの専属ギタリストになりライブにレコーディングに活動し、ライターとしても数多くの作品をソウルシンガーに提供しています。60代後半にはソロデビュー、ロック系クロスオーヴァー系のミュージシャンとの繋がりも濃くて、いろんなタイプの人と活動を行っており、それは彼が亡くなるまで続いた大きな特徴だったと言えます。

70年代初頭でのスライの『暴動』やジャニスの『パール』といった名作のキーマンだったことや、ジョージ・ベンソンがカヴァーし大ヒットした楽曲「ブリージン」の作者であることは有名です。私が大好きなのは、70年代に入ってからのソロ作品群で、77年ぐらいまではどれも素晴らしいと思っています。人によっては、この時期のボビーが唄うポップスのカヴァー曲を酷く毛嫌いするファンもいますが、いってみれば彼なりのバランス感覚であり、娯楽提供精神の表れだと解釈しています。それによってせっかくのアルバムが散漫に聴こえることも否定はしません。しかしあの大きな口で大甘カヴァーを唄ってこそのボビー・ウォーマック、そうは思いませんか?

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ああ懐かしい。80年代のボビーは、まだ元気一杯だったなあ。この笑顔と眼鏡を見たら、誰でも好きなるだろう。日本では死ぬまで過小評価され続けたことが本当に悔しい。
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今年もいよいよ押し迫ってきました。年を取るごとに一年は素早く去ってゆきます。昔の大人も今の私たちと同じように、これほど早く時間が経っていたのでしょうか。年がら年中、口々に、忙しい忙しいと言っていた彼らです。年の瀬の世知辛さやせわしなさは、きっと今以上だったことでしょうが、実感の伴わない時間の推移という点では、おそらく私らが感じるほどではなかったのでは。とにもかくにも、私たちには時間が無さ過ぎます。時計の針が早過ぎます。流行歌を聴く余裕さえも失われた21世紀の生活者に、かつての名曲が沁み入るのは当たり前のことなのかもしれません。


◯「京のにわか雨」:小柳ルミ子
当時の3人娘の中では、私は南沙織が好きで、天地真理は苦手だった。残る小柳ルミ子はどうかというと、いい曲を唄っているなあと思っていた。この「京のにわか雨」の前作が「瀬戸の花嫁」で、次作が「漁火恋唄」なのだから、どれほど傑作曲に恵まれていたかがわかる。その中でも私のお気に入りだったのが「京のにわか雨」だった。渚ゆう子を意識したかのようなテンポのある歌謡曲調の演歌で、ベンチャーズが絡んでいてもおかしくないような、外から見た京都風情を見事に描写している。製作陣は作詞がなかにし礼、作曲が平尾昌晃、編曲が森岡賢一郎という超豪華な布陣。1972年当時の小柳ルミ子はまだ20歳で、前途に更なる将来が待っていた超売れっ子だった。あらゆる才能をつぎ込んでも充分な見返りを疑わせないだけの実力派のスター歌手が、この年をピークに少しずつ下ってゆくとは、私は想像もしなかった。
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◯「女のみち」:ぴんからトリオ
演歌嫌いの小学生だった私も、この大ヒット曲と如何わしいチョビヒゲのおやじたちには、反応しないわけにはいかなかった。とにかく売れに売れた。子供ながらに「そんなにいい曲なのかなあ」といつも疑問に思っていたが、今聴いても同じような感想が浮かぶ。当初は音曲漫才師だった彼らが、何かの記念に自主制作盤として作ったらしい。作詞・宮史郎、作曲・並木ひろしと、完全にトリオ内の自作曲であり、こう言っては何だが、ありそうな演歌のメロディや歌詞を引っぱて来て、鼻歌まじりで作ったように聞こえてならない。プロ中のプロの仕事というよりも、キャリアの中で耳に馴染んだ音楽がつい口から出てしまったような、演歌好きの出来心みたいな仕上がり具合を感じる。そんな共通公倍数的な音楽性だったからこそ、420万枚という驚異的な売り上げを記録したのではないだろうか。宮史郎のあのどぎついキャラクターも、売りには大きく貢献したに違いない。
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◯「学生街の喫茶店」:ガロ
メンバーの堀内護(愛称マーク)が年末に亡くなって、3人組だったガロも、今や大野真澄が残るだけとなった。ガロを初めてテレビで見たとき、恥ずかしながら、ちょっとカッコイイなと思ってしまった。グループサウンズのショーケンやジュリーらに感じた不良っぽさではなく、たくろうにあるようなバンカラっぽさでもなく、少女漫画的な見た目と外タレ風の衣装がアンテナにひっかかったのだ。しかし、「学生街の喫茶店」をフォークのジャンルに位置づけるには無理があった。歌謡曲そのまんまだったし、線が細くてとても軟弱に聞こえた。燃え盛った学生運動後の抜け殻のような空気を、醒めた目でどこか他人事のように語っている風にも読み取れる。歌番組で見ていると、たくろうから感じるような押しやエネルギーはさっぱり伝わって来なかった。ガロの持つ低温でか細いハーモニーに、世間や私が飽きるのも早かった。
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嗚呼、歌謡曲。こんなフレーズが年末の商店街にはよく似合います。嗚呼、J-POPとかでは季節感もさっぱり感じられないです。中味は大差ないんだと思います。とは言っても、世に流れる歌は、時が進めば幾分チャイルディッシュになる傾向があって、今の演歌は昔の歌謡曲並みに弾けているし、ゴスペルもかつてのような超ディープなのはあまり耳にしなくなり、ディスコミュージック並みにポップス化しているように思えてなりません。進化と言えば聞こえはいいですが、幼児化とも受け取れてしまう私です。この耳がただ偏屈なだけなのでしょうか(笑)。


◯「出発の歌」:上條恒彦
厳密に言えば、この「出発の歌」は1971年11月に発売されたようだ。そして同年の第2回世界歌謡祭でグランプリ・歌唱賞を受賞している。その時のテレビ放送を私も見たが、上条恒彦はほとんどオペラ歌手のような声と声量と存在感があって、大いに驚いたものだった。よく聞けばこの曲、作詞が及川恒平で、作曲は小室等という、たくろう絡みの面子らしいではないか!道理で痺れる曲のはずだと小学生の分際で、いっちょまえに人脈図にまで首を突っ込んでいたのが我ながら笑える。翌72年に何回か上条がこの曲を唄うのを聴いたが、初聴きのスケール感や熱っぽさ、声の張りを期待しては叶えられなかったことを憶えている。そして25年ほど前に、小室等にたまたま会うことができたときに、かなり苦労して「出発の歌」を仕上げたのに、関係者が「しゅっぱつの歌」と読んでガクッときたよ、てなことを聞いてた。
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◯「ひとりじゃないの」:天地真理
飛ぶ鳥を落とす勢いというのは、この頃の天地真理のためにあるような言葉だったかもしれない。「ひとりじゃないの」は彼女の得意なシャッフルするリズムが効いたポップソングで、当たり前のように大ヒットした。当時の売れっ子は睡眠時間2~3時間が何日続いても、平気な顔をしてカメラ前でニコニコ唄っていなければ人気を維持できないと考えられていた。芸能界はそのくらいブラックな企業の集まりだったのだろうし、売れっ子とはいえ消耗品扱い、搾取の対象に過ぎなかったのだろう。天地真理はそんな過酷なアイドル業の荒波の真っただ中を、もの凄い人気とともに泳ぎ切った歌手だった。正直言ってそんなに好きではなかったし、テレビで見ては飽き飽きしていた。どちらかというと、同性ファンの支持が強く強固だったからあそこまで登り詰めることが出来たのではないだろうか。もちろん男連中のかけ声もうるさかったが(笑)。
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◯「喝采」:ちあきなおみ
1972年の賞レースの終盤から登場し、猛烈な勢いで追い上げてゴール寸前で大本命の「瀬戸の花嫁」を鼻の差でかわし、見事第14回日本レコード大賞を受賞した。小学校6年生だった私には、最初はピンとこなかった。ちあきなおみは好きだったので、「これかあ…」という落胆した感じで受け入れた新曲だった。そのうち、周りの大人たちが、歌詞の背景はちあきなおみの実際の出来事らしいと、妙に盛り上がり始めて、その噂に巻き込まれるように好きになっていった。本当のところはよく知らないが、歌番組で見る限り、劇場型(演劇的な要素が強い歌唱スタイル)の彼女にストンとハマったようなところがある曲だった。他の歌手が出ている番組でも、この曲をちあきなおみが唄うと、番組のカラーがワンマンショーっぽく見えてしまうほどだった。レコードではわずか3分35秒だが、聴き終わると一本のドラマに匹敵する密度を感じたものだ。
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恐ろしいことに、この1年で音楽関係の日記を書いたのは、たった4回だけでした…。ネタ切れ?まさか!首尾よくまとめてから書こうとすると、それなりの時間が要ると思い込んで、結局それが取れないとなって、ついつい先送りになってしまい、結局何も書かないまま年末を迎えてしまったというのが本当のところです。
そうはいっても年末恒例の<夢みる歌謡曲>を楽しみにしておられる読者は多いと聞いています(誰から?…笑)。ここはひとつ、当ブログの本年不振に終わったカテゴリ、音楽えかきむしを盛り返す意味でも、ガツン!といってみたいと思います。


◯「さよならをするために」:ビリーバンバン
声は宝物だと思う。ひとり一人違う個性を備えた表現ツールとして、歌手や俳優、声優にとっては声こそ命なのではないだろうか。兄弟デュオとしてのビリーバンバンの二人は、それぞれ単独でよりも、合唱の方が個性を伝え易い声質をしている。それは今もCMで流れるとすぐに彼らだとわかるぐらいだから、芸能の世界で生きてゆく上で、彼らにとってあの声が大きな武器になっていることに間違いはないだろう。この曲の哀愁を帯びたメロディと歌詞を、あのハーモニーで唄うのだから、作詞石坂浩二、作曲坂田晃一という腕利きを起用した企画は、非の打ち所がない気がする。中学一年生の頃、昼休みにはこの曲が校内放送で繰り返し流れていた。今聴くと、これが暴れ盛りの子どもたちに、一体どのように受け取られていたのか、非常に興味深い。
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◯「あの鐘を鳴らすのはあなた」:和田アキ子
陰ながら好きだった曲も、演者の力で表舞台へ出てしまい、今や押しも押されぬ和田アキ子を代表する一曲になった。昔、まだ阿久悠が生きていた頃に、彼はこの曲を評してこんなことを語っていた。「和田アキ子の歌唱の大きさを活かせるだけのスケールを持った曲を作ろうと考えた。しかしレコーディングされたものは、何度も録り直してはみたけれど、なかなか思惑の域にまでは達していなかった。時間的制限もあって曲は世に出ていったが、私としてはもう一回り大きな曲想がずっと頭にあって、それを諦めきれなかった。その時の年末に、この曲は第14回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞した。そのとき客席にいたアッコは驚きと感激で取り乱し大泣きし、同じ候補者だったジュリーを引っ張ってステージにまで連れて来てしまった。一体どうなるかと思ったが、その後が素晴らしかった。彼女は曲に負けない大きなスケールの唄を披露してくれた。これだ!と思った。あれで、こちらの想いがようやく満たされたよ。」
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◯「旅の宿」:よしだたくろう
前年あたりから徐々によしだたくろうの魅力に侵されていた私にとって、1972年はようやく世の中が彼を認めたと思う年になった。ファンの評価で言えば、シングルレコードではたくろうの良さは充分に表わせ切れていないと言われていた。確かに充実期のLP一枚に込められた曲のクオリティやパワーは、凄まじいものがあった。表現者、オピニオンリーダーの側面はアルバムでこそ明らかになっていたと思う。ただお茶の間によしだたくろうなるフォーク歌手を認知させたのは、この年のシングル「結婚しようよ」「旅の宿」「おきざりにした悲しみは」だった。特に「旅の宿」は大いに売れた。当時小学校6年生だった私が、登校するときに玄関を出る際に、毎朝唄っていたのがこの曲だった(歌詞と全く合っていない!…笑)。テレビに出ないたくろうが、多くのタレント歌手を凌駕する話題性を音楽で提供してくれたことが、私は嬉しくてならなかった。純な音楽ファンだった私にとって、1972年のたくろうは最高だったと今も思う。
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