テレビを見ることが日常だった頃は、何時間見ても疲れるなどとは思いもしなかった。それがテレビの無い生活が長く続いた後に、再びテレビと同居することになったら、もう以前のように上手くやれなくなっていた。ほんの少し見ただけでドッと疲れが出るわ、見たい番組は極端に少ないわ、デジタルに切り替えないと番組が見せてもらえない仕組みに知らん間になっているわ…。


これでも子どもの頃はテレビっ子といわれていたのに、今ではニュースとスポーツぐらいしか見ないし、別に無くても構わない。一旦離れるとなかなかよりが戻らなくなるというのは、どこか人間関係に似ていたりする。で、テレビがつまらないならパソコンがあるというわけで、こんな風によしなしごとをダラダラ書いている。そうか、テレビにブログがあれば近づけるかも(笑)!


しかしパソコンも疲れる。特に眼がやられる。そうそう長時間は付き合っていられない。そう考えると、紙とエンピツというメディアは凄いものだ。一考に疲れないし、離れて暮らしたことなどただの一度もない。必要に迫られている時もそうでない時も、あって当たり前で、紙とエンピツのない日常など、私は知らないし想像もできない。


紙とエンピツが擦れあうとき、不思議と懐かしい生の音がする。
あれは本当にいい音だと思う。
    

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お気に入りの景色は年齢とともに変わってゆく。正確には、増えてゆく。私の場合、ではあるが。極めて狭い見聞のせいもあるが、時間と正比例するように、好きな風景は増殖していると感じる。現実のものでも、空想上のものでも。まるでおもちゃを増やしてゆく子どもみたいだ。


こんなこともある。認知に困難な景色を私の視覚が受信すると、それを解読しようとする。よく見るとと、それはエグい配色の広告が、バックのビルや手前の街路樹と一体化しており、なにか別なものと錯覚していただけのことだった。これも一回きりの蜃気楼のような風景だと思う。


景色には自然もあれば人工物もあるし、過去もあれば未来のものもある。目に見える場合も見えない場合もあるし、温度や天候や季節や気分も関係する。見たことも無い風景さえ勝手に自分でこしらえてる。それらを箱庭のように愛でる。何度も何度も愛でる。


景色は誰にとってもリアルな素材というわけではない。しかし景色を描く快感は、私にとってはリアルだ。だから文句は言わせない。全部が絵の中で生きてゆくから、好きになったら描くのだ。好きになった者だけがその景色に出逢うのだ。
    
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幼い頃に見続けた風景は、必ず一生人について回る、いわゆる絶対心象風景症を信じる人に逢ったことがある。間違いではないと思うのだが、本当に人生を支配するほどの風景になりえるのだろうか。そんなことを考えて、自分に当てはめてみると、いろんな景色や残像がやってくるもので…


確かに生まれ育った土地の見慣れた景色は、その影響力が大きいと思う。18歳までは港町で遊び暮らしたので、海と山は私には欠かすことが出来ない。実際よく描いてしまう。土手や草むらや雑木林といった自然未満のモチーフが大事なのも、子ども時分の眼前風景が源流なのだろう。


いつの頃からか、見たことがないのに、ずっと心の中に止めておかれたままの景色というのが住みついている。漫画や百科事典などで仕入れた後天性の要素が高い景色で、かつてちばてつやが描いた昭和の下町の風景や、ボロボロになるまで読んだ中南米の地理の本の写真などなど。


そこには憧れや驚異だけではない、自分との相性みたいなものがあると思う。そうでなければ、心象風景にここまで大きな個人差は生まれないだろう。変だと言われ、必然性に欠けると言われても(笑)、私は私に似合った私にとって居心地の良い景色を描きたいのだ。

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景色を描かない絵描きさんは、いる。いるのだが、描かなくとも画布に現れ出る景色もあって、その意味でいうと、景色というものは、どの絵描きさんにとっても重要な素材である。私も景色は大好きなモチーフで、必要が無くても、いつもどこかに取り込みたくなるくらいだ。


絵を描いていて思うのは、景色や風景は、解釈の自由度が高く、それが現実であろうと架空のものであろうと、絵の中で容易に了解されてしまう。そんな風に思っている私だから、描いている景色のほとんどは、実際にあるのかないのかの分け目がない。簡単にいえばいい加減なのだ。


このいい加減というのが大事で(写実狂主義者や、二言目には「必然性」と言いたがる評論家風情の人達には、実に評判が悪いが)、瞬時にして満たされる場所や気持ちがしっくり来る光景は、実は心の中にしか存在しないのではないだろうか。


また、いつも見る街並みや木立ちが違って見える時、それは目に映った現実世界ではなく、それを描いて自分に説く心象風景そのものが魅力的なのだと思う。同じ山ばかり描いていた有名画家がいたが、彼にとっては、毎日違った山に見えたことだろう。きっとそれが素敵だったのだ。

    
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むら上のおっちゃんが よっぱらってかえってくると
30びょうぐらいで夫ふげんかがはじまります。
なべとちゃわんをなげますが だれも止めません。
二人とも「こんないえ 出ていったる」いうて とび出しますが 
つぎの日になったら なんでか 二人とも いえにいてるからです。


ひがしののおばあちゃんは 耳がとおいので
えらい大きい音で ラジオをきいてます。
げんかんに人がきても わからんみたいです。
けど ないしょ話しは ぜんぶきこえるらしいです。
年をとったら あんなかわった耳になるんかとおもうと
しんぱいで夜もねれません。


おざきのおじいちゃんのまえで
せんそうのはなしをしてはいけません。
南のしまで はらぺこで死にそうになった話しを
2000回ぐらいききました。
いつもさいごは「今の若いもんは」というて おこります。
なんでもかんでも若いもんのせいにしとったら
しまいに そうしきをやってもらわれへんようになるとおもいます。


川しまのおばちゃんは なんであんなうそをつくんか わかりません。
ええ学校を出たとか いえはお金もちやとか 
天体ぼうえんきょうの大きいのをもってるとかいいますが
みなうそやいうの わかっとるのに
こんどは にわにプールをつくるそうです。
どこのにわにつくるんや。
うそって ひとついうたら 止まらんのかな。
ためしに 川しまのおばちゃんに うそついたろ。


みねおかのお兄ちゃんは ほんまはたいしたことないんです。
まえは べんきょうができて うんどうもできて
いえの手つだいもして 男まえでかっこよかったのに
中学へいったら 
べんきょうはできんわ うんどうもあかんわ
タバコはすうわ ブサイクで女の子にもあいてにされへんわ
ようあんだけとコロッとかわれるもんやと
ながやのみんなもあきれてます。


団ちにすみたいです。
ながやは しじゅう人が入ってくるし
雨もりはするし でん気もすぐおちるし かないません。
団ちやったら コンクリートやさかい 
となりのこえもきこえんし
3がいからは見はらしはええし
テレビのドラマのへやみたいやし いうことありません。
なんでみんなは ながやから引っこしせんのやろ。
わからんさかいに たばこやの川もとのおばあちゃんにきいたら
こないいわはりました。
「むこうさんげんりょうどなり」。

              
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