先日奈良へ、友人らのポジャギの新作展を観に行ってきました。ポジャギとは「韓国のパッチワーク」と言われることもありますが、実際には多くの技法や地域の特色、染めや刺繍などの技法があり総称として「ポジャギ」と呼ばれることが多いようです。実際に家庭での食事の覆い布や、寝具や風呂敷などに使われています。20年前にポジャギに魅せられた友人は自分でも縫い始め、足繁く韓国へ通い、すっかりその道に浸透してしまいました。


彼女の自宅へ何度も遊びに行くうちに、私もポジャギにうっすら興味が湧いてきました。手先の不器用な私が作れるはずもなく、見て楽しむだけのですが、これがおもしろいのです!庶民の生活用具を包んだり覆ったりする機能を持っていながら、はぎれのパッチワークが時として崇高な芸術性を持つのですから。私の好きな鑑賞法は窓際にポジャギを吊るして、外の風景を透かして眺めるのです。いかようにも解釈できる懐の深〜い民衆芸術そのものです。


おもしろいのは、そんな身近な作品が時や処を変えるだけで、鮮やかな現代アートに変身してしまうこと。麻や絹などの一般的な素材が、丁寧な手縫いによって表情を持ち個性を主張するのです。それは韓国の伝統工芸でありながらも、汎東アジア的な風呂敷文化の風土を感じさせます。生活の中に住む小さな神々に対して敬意と慎みを持つ気持ちを想い起こさせてくれるポジャギ。目の前の絵ばかりに右往左往している私を静かに鎮めてくれる心優しき布です。


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絵を描く人には実際に音楽を嗜む人が多い。そんな印象があるのは私だけだろうか。イラストレーターや漫画家、絵本作家で、音楽のライヴ活動を行っている人の多さにはいつも驚ろかされる。部屋のなかで地味な作画を繰り返し行っている人種だから、たまにはタガが外れたように狂わなければやってられんのかもしれない(笑)。ミロやカンディンスキーのように画布の上で音楽解釈の図を平気で展開してしまった人も大して変わらない心境だったのではないだろうか。


筆やペンを楽器やマイクに持ち替えて、違う世界を覗いてみる。やってみる価値があるかもしれない。大道芸人の音楽に合わせて踊るピカソの愉快そうな写真を見たことがあるが、まさに子どものそれだった。私は聴く一辺倒の音楽人生なので、音楽を作り演じる面白さを理解出来てはいないと思う。それは描く一辺倒の絵描き人生である自分が、絵の鑑賞者として大きな未開拓地を抱えたままであることにとても似ている気がする。不器用な人間によく見かける図だ。


絵を描く喜びと、好きな音楽を聴く喜びとの間に違いはあるのだろうか。私は差がないような気がする。どちらの幸福感も人間が生まれ持った特性であり、個人が体得した後天的な官能でもある。絵と音楽について考える時の楽天性によって、私はいつも同じ結論に行き着く。絵は音楽に愛されている。音楽は絵に愛されている。私は両者を愛している。両者は私を愛してくれる。ああ、私は幸せだ!
    

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いつの頃からか、個展などで「絵に音楽を感じる」と言われるようになった。演奏したり踊ったりするような絵を描いていなくても、音楽は私の絵に再々忍び込んで、姿を現し出した。音楽を聴きながら絵を描くと、確かにそういったニュアンスは伝わり易い。反対に音のない世界が必要な場面に、BGMは不要である。個人差はあろうが、実に分かり易い。(文章は文字の組み立てだから、どうしても聴覚に頼るところがあって、音楽が邪魔になる。とても対照的だ。)


絵を描くにあたって、音楽から受ける最大の恩恵はイマジネーションである。耳から入ってきた調べが脳みそに届いて、それが勝手にイメージされた映像に変換される。既視のものもあれば、バラバラに編集されているものや、初めて見るようなものまで。いってみれば、身体のどこかにもう絵があるわけである。あとはそれを右手で変換して目に見えるようにする。思い通りにいったり、全く別な姿になったり…。音楽という源泉から得た空想の滝壺は邪魔が少なくて大好きだ。


昔洋楽でMTVなるものが流行った時、音楽とセットで、要りもしないBGVを垂れ流していたが、あれこそイマジネーションの退化だと思ったものだ。音楽の背景に流れる映像は、聴いた本人が自由に想い浮かべるものであって、こうですよと提供されるものではないからだ。あんなものは迷惑なだけで、音楽を楽しむ行為を大きく限定してしまう。目をつぶって音に誘われる瞬間こそが素晴らしい。今もそんな風に思っている古い古い男です、私は(笑)。
    
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さて音楽。古今東西、全ての絵描きさんにとって、絵と音楽の関係は長く深く濃い。語る対象として、とても私ごときが登れる山ではないと考え、ここはいつもの自分に照らし合わせた検証をしてみたい(と、いきなり逃げの一手です…笑)。そもそも音楽を素材として考えているかと聞かれたら、即答出来ないと思う。なぜなら私にとって音楽は、あまりに身近で距離が無さすぎる。音楽は日常であり肉体であり食べ物であり情緒であり、とどのつまり環境の一要素そのものだから。


そうなると生活から音楽を追い出すことが困難になる。絵を描いているときは、某か必ず音楽が流れているし、お風呂や台所や外出先でも鼻歌は普通に出て来る。突発的にリズムやメロディが頭の中をグルグル回ることもある。どこかの大手レコード屋さんが「NO MUSIC NO LIFE」と広告を出していたが、まあ、そんなところだろう。絵と音楽の関係を考える以前に、両者は私の中で原始時代から常に縄張りを持っているのだ。時には仲睦まじく、時には抗争を繰り返しながら。


なんといっても音楽は気分を簡単に変えてくれる。一瞬で高揚させ、長らく沈殿させてくれる。絵のモチーフに音楽が当てはまった時には、かなり強い味方になることは間違いない。実際そうやって私は力を借りてきたし、その術も身についていると思う。絵と音楽はお互いが、知覚器官として目と耳との住み分けをしていることが、おそらく両者の間に主従関係の生まなくしており、不要なバッティングの少ない原因となっているのではないだろうか。


そうはいっても昔は音楽の表現形態には憧れたものだった。概念ではわかっていても、音楽の伝わり方の素晴らしさを感じれば、絵なんて…と思ったことは一度や二度ではない。どんな芸術も音楽に嫉妬すると言った人がいたが、まさに至言だと思う。絵に従事する時間が経って、そうとばかりも言えないと思うようになった。つまり、私は音楽についてわかっていない。同様に絵についてもわかっていない。ただ、両者は不思議と、私を簡単に素っ裸にさせる。    


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先日の衆院選は民主の圧勝に終りました。政治に関する意見を書き出すと止まらなくなるので(笑)、さっそく今日の本題へ。選挙ポスターのことです。ずっと思っているのですが、日本全国どんな選挙でも、選挙ポスターの趣味の悪さといったら!私はもう慣れてしまいました(それが怖いと思うこともあるのですが)。何十年経っても何の変化の兆しもない、あの醜いデザインの張り紙を、幾ら本人らの意向だといっても、大衆の目につき易いところにペタペタ張るのはちょっと…


そんなある時、私は急に選挙ポスターのセンスに惹かれ始めたのです。いや、惹かれたわけではないな…素材としての面白さに気がついたという方が的確です。どこの誰だか全く知らないおっさんやおばさんが、画一的なだけの配色画面の中で、不似合いな笑顔をしたでかい顔をこちらに向けてくるナンセンスなセンス!文化大革命の頃の中国の、大陸的なグロセンスに満ちた張り紙や、今の北朝鮮のプロパガンダ全般にも、似た匂いを感じます。


つまりこれは悪趣味の部類であり、オシャレや流行とは対極にある主張様式です。なのになぜ皆が皆揃ってあの仕様でポスターを作るのか?私には不思議でなりませんが、せっかく4色で大量印刷するのだから、来年の選挙では候補者は写真ではなく、是非イラストで自分の顔を掲載してほしい!選挙ポスターの伝統に乗っ取ったモサいダサい遊びのないものにイラストが合体した時、一枚の紙がどれほどの訴求力を持つものかを、私は見てみたいです。もちろん、候補者の絵は私が描きます(笑)!各政党さん、よろしく!!    


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