そう。
前から知っていました。

絵を描くと、人が寄ってくると。
絵を描くと、知らない誰かとも、簡単につながることを。
絵を描くと、言葉が要らないことも。
絵を描くと、心の奥の方までわかってもらえることがあると。


先日東京からAMI☆TAME☆CHUというバンドが来阪し、
そのライブに行って参りました。
ひとこと、素晴らしかったとだけ言わせてもらいましょう!


この2月に、ある友人に頼まれて、彼らの絵を描いたのですが、
友人もAMI☆TAME☆CHOOさん達も、とても喜んで下さりました。
その絵は今回の大阪ツアーのフライヤーに使われ、
東京でも引き続き使用されるそうです。
最初から想定していたわけではなかったので、
とてもうれしく思いました。


私は音楽が大好きなので、たまに音楽関連の絵を描くと、
ズブズブ入り浸ってしまうところがあります(笑)。
そんな絵を喜んでもらい、また二次使用していただくことは、
絵を描くものにとって、大きな喜びです。
私の中で一緒になっていた絵と音楽が、
外界に出て、他の人とも共有されるわけです。
こんなうれしいことはないでしょう!


ライブの後、近くの中華料理屋さんで打ち上げをし、
午前3時に店を出ました。
夜中の道を、トコトコ歩いて自宅へ戻ったのが午前4時半。
その間ずっと私は、地面から体が浮いていたと思いますよ(笑)。

    
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先日、母校の大阪デザイナー専門学校で、OBとして取材を受けました。これから進路を考える高校生達他への学校の紹介としての資料本&WEBに掲載されるそうです。仕事で取材することはありますが、自分が取材される側になることはそうはありません。(どこかで似たような体験があったなと思ったら、それは小学校へ授業で寄せてもらって、子ども達から質問を受ける時でした…笑。)


先生からいろんな質問を受け、ひとつひとつを考えているうちに、この学校へやってきた頃のことを思い出さずにはいられませんでした。私が大阪デザイナー専門学校に入学したのは、今からちょうど20年前のことです。絵について何の知識も経験もなかった私が、何故絵の専門学校へやってきたのかは…正直私にもわかりません(笑)。たぶん、自分の邪魔をしないように心掛けていたら、この学校へ入学していたのです。


あの頃いろいろお世話になった先生方も、私と同じように20年を経て、今も生徒さんを相手に奮闘されていらっしゃいます。当日何人かの先生に、実際に御逢いしました。変わりなく、しかし確実に変化しておられました。イラストレーションやデザインの現場に従事することは、それなりのパワーが必要です。20年もの間、継続して若い力を相手にクリエイティヴであることは、日々の意識が高くないと、そうは簡単に続かないと思う。


先生方と言葉を交わして、私はとてもすっきりしました。「この人達は、私のことを見ていてくれたのだな」という想い。「次にこの学校へ足を踏み入れる為には、どんどん先へ行かねば」という想い。「明日も自分を喜ばせるような絵を描いていたい」という想い。会話の時間も言葉数も多くはなかったですが、メッセージは充分すぎるほど心に伝わってきました。取材という最初の目的も忘れて、私にとって感慨深い学校訪問になりました(笑)。


学校から帰路につく途中、溢れるほど画材を抱えた学生さん達と何人もすれ違いました。私もあの中にいたんだ、ほんの2、3日前まで…。
    
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個展はその時その場限りの磁場を持つ展示企画なので、ある種のアクシデントみたいな要素がある。同じ作品を同じ場所で展示したとしても時間が違えば全く異なる顔に変わるし、場所が違えば更に変化する。つまり同じ個展は二度とやって来ないのだ。


拙く短い私の個展歴の中で、もしもう一度どれかを再現できるなら、迷わず2000年に行った『インサイド・ストーリー』展を挙げるだろう。もうあんな個展は二度と出来ないかもしれない、と弱気なことを考えてしまうことがあるぐらい、2000年という年はこの個展だけに捧げた一年だった。前年の初個展『ヒロノリジナルワールド』ですっかり個人展示の美味しさに酔った私は、2回目の個展を早急に計画。自分のルーツと自分の種別をテーマにして、一年間かけて創ったのが『インサイド・ストーリー』展だった。当時テレビで見たドキュメンタリー番組「グレート・ジャーニー」に即発されたことと、会員である国立民族学博物館からの影響を盛り込みたかったこと。この2つの要素が、私を強く後押しをしてくれた。


前回もお世話になっていたセルフ−ソウ アートギャラリーだったが、作品数や大きさなどが前年の個展を上回るものだった為、今度は全フロアーを借りなければ展示が出来なかった。内容はとにかく描き込んだ作品が多かった。一年という時間を使って、じっくり創るつもりだった作品は、濃く重くうるさかった(笑)。今思い出してみると、自己表現欲を納得いくまで満たしたかった気持ちだけが、鮮やかに残っている。きっとそれだけだったのだろう。だから今も自分の中にしっかり居場所がある個展なのだろう。


作品点数は57点。全て何らかの形で上記の「グレート・ジャーニー」と国立民族学博物館の影響から出発したものばかりだった。画材には敢えてこだわりを持たず、いろんなものを使った。クレパス、アクリル絵の具、デザインガッシュ、貝殻、セロテープなどで描いた。紙も得意のワトソンだけでなく、ダンボールやベッドの敷板、厚手のボール紙、ギター、フライパン、ベニヤ板、発砲スチロール、粘土などを使用。こうして想い出すだけで気持ちが踊ってくる!あれは本当に、本当に楽しい作業だった。


相変わらず作品のタイトルも、狙ったものが多かった。作品とタイトルの間に鑑賞者を放り込む意図が確信犯めいたのも、この個展あたりからで、それは今もずっと続いている。ちなみに今回のタイトルにはこんなのがあった。

『土の中ほど眠りたい』
『熱帯蜜月庵奥座敷』
『ニッチモとサッチモ』
『悲しい顔で会いましょう』
『人を選ぶ守り神』
『ほら、材木がみている』
『叶う願いと叶わぬ願い』
『今ハ 山ニ住ム 古イ 古イ 友達ヘ』
『よそみしてない展望台』
『オカエリナサイはオヤスミナサイ』

描いた本人ももう忘れかけた絵がチラホラ…(笑)。今となれば、絵とタイトルがどこまでマッチしていたのか疑わしいな。作っているときは、もうこれしかない!という気でやっていたのだけれど…。


この『インサイド・ストーリー』展は、ふたつの大きな出来事を連れてきた。ひとつはある編集者さんとの出逢い。以前から面識のあった方だったが、本展を見てもらい仕事をご一緒させて下さることになった。その後お付き合いは延々と続き、今も良きパートナー兼相談相手になってもらっている。この時点で私を起用するという英断には、本当に頭が下がる。まさに冒険である。その意味では私が職業絵描きとして本格的に活動するきっかけになった個展だったのかもしれない。


もうひとつは、自分の絵が見る人にとって、<癒し>になっていると知ったことで、これは強烈なショックだった。といっても嫌なことではなく、むしろ心地よい冷水を浴びるような新鮮さだった。個展のアンケートに書いてもらった感想にその旨が大変多く、暑苦しく攻撃的な絵ばかりを私に描かせていた血が、他者の日常を冷やす力を持っていることがわかった時の驚き!現場に出て現状を見て現実を知らされたわけで、家の中だけで籠っていたら一生知ることがなかっただろう。これは大きな出来事だった。後々、絵に情感を求めるようになったきっかけは、間違いなくこの個展からだった。


この後幾つか新作のみの作品展をやったが、完成度や洗練度はさておき、エネルギーのボルテージの高さで、本展を上回ることが出来たものは皆無である。いつか乗り越えたい個展であることは確かだ。それとは反対に、経済的には大失敗で、後にも先にもあれぐらい派手に赤字を負った個展はない(笑)。締めることを憶えたという意味でも、実に教わるところが多い個展だった。
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昨日、『えかきむしのきもち』でお世話になった編集者Hさんと御逢いして、二人だけで打ち上げをしました。場所は十三!Hさんは以前も十三のディープな飲み屋でお昼を食べるなど、何故かこの歓楽街に惹かれて仕方ないそうな。で、昨日は焼酎のおいしい沖縄料理屋さんへ。夕刻18時40分あたりから23時まで、延々飲み食い喋りっぱなしでした。今日のお仕事は大丈夫だったかな。ちょっと心配です。


昨日初めて知ったのですが、Hさんと私との出逢いは、正真正銘の偶然だったそうです。私が送ったダミー本、通常でしたら、編集長さんが見て判断されるらしいのですが、要職故多忙を極める時でいらしたそうで、その時はたまたまHさんが開封して見て下さったのです。そんなこと全然知りませんでした。もし編集長さんが暇でいらしたら、さて『えかきむし』はどうなっていたのか、それは誰にもわかりません。


Hさんから初めてメールをいただいた時、率直に「よっしゃ!引っ掛けた!」と思ったものでした。私、本当に無礼ですよね(笑)。その後電話をいただいたり、何度もメールでやり取りをするうちに、Hさんの人柄や出版に向かう姿勢が、だんだんわかってきました。そしてHさんが私にとってどういう存在なのかということも。私が夜の海で迷う小舟だったとしたら、Hさんはまさしく灯台でした。


その後御逢いして、面と向かっていろいろお話をさせてもらい、私の勘が間違っていなかったことが明らかになった頃から、『えかきむし』はどんどん動き出しました。編集者さんの仕事というのは定義は簡単かもしれませんが、現実にこなしてゆく種類や量、範囲は半端ではなく、仕事を憶えるノウハウは自分の中にしかない、人それぞれのやり方で、結果(出版物)を作ってゆく。そんな職業だと思います。


Hさんが私に「ああしろ、こうしろ」と仰ったことはたぶん、一度も無かったと思う。それは当たり前のことで、ものを創る主導権なり責任なり楽しみは、概ね作家と呼ばれるサイドの人間が担ってしかるべきだと考えるからです。しかしなかなかそうはいかないケースもあるようで、創作する上で編集者さんと作家との協力関係の難しさは悩みの種だと、いろんな方面からよく耳にします。


その点で、私はかなり幸運でした。好き勝手の塊が当然のように受け入れられるのですから、こんな楽しいことはないです。編集者たるもの、こうでなければ!なんて、偉そうに私が言えるのも、Hさんが社内で『えかきむし』を守って下さったからこそです。途中で道に迷いかけたら、しっかり修正して下さる。現場の声もちゃんとこちらに伝えて下さる。私にとって、Hさんはありがたすぎるぐらいの素晴らしい編集者さんです。


Hさん、どうもありがとうございました。魔法のような時間を共有できたこと、一生の想い出になります。これからもどうぞよろしくお願いいたします!
    
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最近人の話しをよく聞きます。それだけ人に逢っているということになります。いや、そうでもないか。ハガキやメールをもらって、それに受け答えしていることも多いな。何にしても、昨年末からの冬に比べて、この春はまるで交差点に立っているかのような錯覚がするぐらい、いろんな人との会話活動の出入りがあります。私は会社勤めをしていないので、社会性の平衡感覚維持が重要で、たくさんの方と話すというのは非常に良いことだと喜んでいます。


人と話すということは、人の話しを聞くということでもあります。人の話しの中には、時々愚痴や腹立ちも混じっています。それを頷いて聞くというのは骨が折れるものだと、若い頃は思っていました。今は少し違います。速射砲のような不平不満を聞いている自分を、斜め上あたりから見ているもう一人の自分が見えます。頷き、間の手を入れ、寛容な言葉を挟み込む自分が、まるで古い無声映画コメディの役者みたいに思えてくるときがあります(笑)。バスター・キートンやハロルド・ロイドみたいな。


どんなコメディかというと、災難に遭った人物の困った様子を描くような感じのものです。ということは、私が人の一方的な言い分を聞いているという行為は、災難に近いことになります。最近人の話をよく聞くのは、私が聞き上手だからだと思っていましたが、どうやらそうではないらしい。つまり私は、愚痴から逃げるのが下手なのです。すぐに愚痴に捕まって押さえ込まれるのです。柔道の寝技みたいに逃げ口を塞がれ、思いっきり口移しで愚痴を吹き込まれて、ボロ雑巾になってようやく離されるのです。


こんな自分を外側から見ている私は、きっとおもしろい絵が描けることを期待しているのでしょう。まさにコメディだなあ。監督と役者が同一人物であることも、見逃せない共通点です。ちょっとシニカルで、ちょっとドジな、明日は我が身のような、そんなコメディ。うん、いいかもしれないな。さ、それでは、今のシーンを、もうワンテイク!とか言われたら、死んでしまうけど(笑)。
    
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