やりきれないことは山ほどあるものですが、人の逝去ほど心が空虚に感じられることはないです。知り合いの方がつい先日旅立たれました。知り合いになってまだ一年未満の人だったのに、とてももったいないことをしてしまったと思えます。もっと話しておけばよかった。どうしていつも同じ過ちばかり繰り返すのだろうかと、嫌になります。


思えばその人とは、実際に会って話した回数よりも、フェイスブックで交わした文字の会話の方に重きがあった。モニターに映った文字の隙間から、明るい人柄が漂っていました。実際にお会いして、元気な笑顔に心が溶けたものです。もう一度会って、あの笑みを見たかったな。心よりお悔やみ申し上げます。


           今日はその人が好きになってくれたこの絵からスタートです。

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「私たちの行き先を誰が知っているというのか」 




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                 「ハートがクスクス笑ってるよ」                


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         「潮の交わり」          


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         「日暮れは屋根づたいにやってくる」         


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                   「群集心理」                  


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            「ふて寝」             


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           「男は屈折した生き物」           


「えんぴつは ときどき はずかしい」 

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                  「水の中は温かい」                     


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         「トンネルを抜けるとシケだった」         


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               「潮」             


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             「情熱と希望」             


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              「私が愛したDADA 8」             


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                 「波紋」                


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   「甘い夢」    


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  「Dust My Bloom」
      
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今月は慣れない講演が3つあって、それぞれ本番以上に準備に時間を使いました。草稿したり、予行演習をしたり。慣れた人や人前力のある人なら、そんな準備はさほど要らないのではないでしょうか。そうでない男は、それなりにシミュレーションをして臨むようにしています。それでもなかなか思ったようにできない。いつもすぐに「もっと上手くできるはずだ」と思ってしまいます。もし準備をしおかなかったら、終わった後で一層の後悔や自己嫌悪が襲って来ると考えられます。一回ぐらい満足して終わってみたいものです。

今月のf.b.版つぶやき集です。

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【11月1日】

明日からAMI☆TAME関西ツアーです。是非とも、最高の唄と演奏を聴きにお出かけくださいませ。

私はどの日に行こうか。11月3日か、5日か、どちらかだな。

今回のライブ日程は、私にはキツい。自分がもう一人いてくれたら、そいつに作業を全部やらせて、私は四日間とも聴きに行くんだろうな(笑)。そんな都合のいい奴はどこにもいないから、一晩だけ仕事から脱走してAMI☆TAMEさんを聴きに行くんだ。



【11月4日】

セレッソ大阪、やったね。遂にクラブ初タイトル。本当は私の心が熱狂している時に取ってほしかった。すっかり落ち着いてしまった今は、しみじみうれしく思えます。きっと素晴らしい瞬間だったことでしょう。これで2005年12月4日、泣きながら歩いて帰った日の事が少しは精算できます。選手、監督やコーチ、他のクラブスタッフのみなさん、そして長年煮え湯を飲まされ続けてきたセレサポやファンのみなさん、おめでとう。



【11月8日】

朝から雨降る一日の始まりで。

せっかく起きてすぐに洗濯したのにな。

煙るような空模様を見ようとベランダに出たら、

トマトとゴーヤにまた新しい実が。

もう11月で。

いつまで実りをもらたらしてくれるのか。

灰色の天空を仰ぎ見るに。

今日も一筆一歩を。

午後は知り合いに便りを描こうと。

そんな一日の水瓶を泳ごうぞ。



【11月10日】

今日も一日ご苦労さん。ぼちぼち作業を終わろうか。

朝からいろんな刺激を自分に与えて、この時間までやり過ごしてきたけど、そろそろ飽きてきた。お腹も減ったし、眠くなってきた。

今日は金曜日、週末だ。いいな、週末って。なにかお休みっぽい響きがして。休めなくても週末は週末、妙に心が安らぐ。

今夜はズブっと寝よう。明日、朝起きたら、また気張ろう。

自分へのご褒美、なにもないけど、今日も一日ご苦労さん。



【11月13日】

初めて入った中華料理屋で晩飯を。空腹だったのでガッツリと定食をよばれたが…ちがう。ちがうねん…。こういう中華やないねん。頭の中で文句タラタラな割に、ぱくぱく食べる。

そのうちだんだんはっきりしてきた。簡単な割り算みたいな、こんなわかりやすい中華、もうええて、俺。ずっと食べたい中華て、王中の中島さんの作った中華やねん。

なんでもっと食べとかへなんだやろか、俺。これでもか!いうぐらい食べとくべきやったな。吐くまで食べとくべきやったな。悔やまれる。中華料理屋へ入るたび、いっつも後悔する。

これって、ずっと続くんかなあ…



【11月20日】

昨日は大勢の人が集まるイベントが二つありました。


一つは小学校で拙い講演をさせてもらったこと。生徒さん、ご父兄、教職員のみなさんをトータルしたら約800人。これぐらいたくさんの人数相手になると、もう緊張とかしなくなるものですね。そして子どもたちの歓声って、心がブルブルざわめきます。眠っていた細胞が覚ました瞬間を感じました。


もう一つは貴重なトークイベントを聞きに。その会場のロビーで、十数年前に仕事でとてもお世話になった方に出会ったのです。昔と同じ声で労をねぎらってもらったら、間髪入れず、涙が下痢のようにドサっと出てしまい、人前でおいおい泣いてしまった。とても恥ずかしかった。ここでも隠れていた細胞が、チラリと顔を覗かせたのでした。



【11月23日】

人に会っていなくても、「今日はいろいろあったな」などと思うのは、ネット社会に身を置くものだからだろう。


夕刻まではのほほんとした一日だったのに、そこから一気に血圧が上がりそうなメールをもらったり、喉がカラカラになりそうなニュースを読んだり。どぎついジェットコースターに無理矢理乗せられたも同然だった。


全くこの世界は、刺激が強過ぎる。もうちょっと、穏やかな時間を過ごさせてはくれないものか。

ネットの世界にそれを望むのは、無理な話しなのかな。


今晩は押し入れの中で眠りたい気分ですよ。



【11月29日】

本日午前の部の作業は、だいたい予想通りの進み具合でした。お昼ご飯は、しめじとキャベツのパスタを作って食べました。我ながら美味しかったです。デザートに大きなリンゴ一個をむしゃむしゃと。

今日の空模様はどんより曇っていて、外に出ようという気にならない。こういう日は籠もり志向と合致して、作業が思いの外進むことが多いです。狙い目かもしれないな。

さあ、午後の部開始です。晩ご飯まで気張ろうと思います。    

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セカンド・エフォートという言葉を知ったのは大学生の時。アメリカンフットボールの強い学校だったので、試合を見に行き、ルールを憶えているうちに耳にした。ボールの保持者が相手からタックルを受け、倒れそうになりながらもどうにか踏ん張って、1歩でも1ヤードでも前に進む、走る、ジャンプする、その行為を表現した言葉である。二回目の努力という泥臭い響きが気に入っている。


毎日机で作業をしていると、セカンド・エフォートが必要だと思える場面がよくある。ファースト・エフォートだけでタッチダウンまで辿り着けることは稀だから。仕事をする中でタッチダウンという成果を獲得するまでには、様々なタックルを受けて、その都度仕切り直す必要が出てくる。消耗するし面倒くさい。そこで切れてしまうケースもあるだろう。そうなったら、セカンド・エフォートの出番はなくなってしまうわけだ。


これは私のフルマラソンでの体験だが、当初想定していたようなレースにならないことが結構多い。それは主に調子のせいで。タイムが徐々に遅れ始めて、最初に望んでいた展開とは違うレースになったとき、路面で何を頼りに走るのかはとても大切だと思う。フルマラソンでセカンド・エフォートが失われたら、そこからゴールまでは、正真正銘の地獄が待っているからだ。(その地獄にさえ付き合わない、棄権という選択もあるにはあるのだが。)


セカンド・エフォートは、実際に獲得ヤードを増やす上では、ひとつのビッグプレーに比べたら、微々たるものかもしれない。しかしセカンド・エフォートの少ないチームで、強いチームなど見たことがない。セカンド・エフォートが常態化しているチームは、間違いなく強い。派手なプレーではないかもしれないが、チームメイトや観客を鼓舞する。アメフトの試合を見ていて、私にとってはセカンド・エフォートこそが最も魂を揺さぶられるシーンだ


スポーツ用語のセカンド・エフォート。不思議と今の仕事の中で思い当たる節が多い。差し当たって、次にやってくるタックルは、上手くかわせるといいのだが。


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眠り。

なんと心地よい言葉なのだろう。字面を見いているだけで、心が休まってしまう。

日が沈むと人は眠り、日が昇ると人は目覚める。

太古の人々はそうやって濃い睡眠を貪っていたに違いない。

自然に眠りこけ、朝日で目を覚ますのである。それも毎日。

こんな素晴らしい生活はないのではないだろうか。


しかしである。

私が今生きているのは、生き物にとっては滅茶苦茶な現代社会である。

日が沈んでは眠り、日が昇ったら目覚める生活をしていたら、

すぐに世捨人になってしまうだろう。

そんなおかしな世界で、人が生まれながらに持った睡眠という欲望を

ひたすら押さえつけながら生きている。

なんと不自由なことなんだろう。

そんなおかしな世の中に、なんの文句も言わずに従って生きている。


かつて私は睡眠不足に弱くて、特に30代ぐらいまでは、

寝不足の状態で行う活動の質の悪さには定評があった。

満足に眠った後でなければ、目を覚ました後に満足なことは出来ない。

それが私の生活の鉄則みたいなものだと思っている節は未だにある。

人に正直にそう言うと、我が儘な奴だと言われたこともあった。

寝不足を我慢しなかったら、それは我が儘なのか…


睡眠を少なくして、起きている時間を増やし、

その間にどれだけ効率的な活動に従事するか、

どういうアウトプットを行ったかが、

現代に生きる社会人の質を決める目盛りであるかのように、

世間様は勘違いをしてはいないか。

そんな人生を送るのは嫌だ。

睡眠を削ることは、命を削ることだ。


もちろん個人差はある。年齢的なことだってある。

50代後半に入った私は、6時間睡眠が適正になった。

たまには5時間ぐらいのときもある。

8時間も眠ったら充分寝貯めをした気になる身体になった。

年を重ねて、遂に睡眠軽視社会動物に成り果ててしまったのか。


しかし美味しい食べ物にこだわるように、良質の眠りにこだわりたい。

運動をして気持ち良くなるように、眠って気持ち良くなりたい。

快便が快感なように、快眠に快感を感じたい。

風呂上がりのように、寝覚めもさっぱりしたい。

これは夢でもなんでもなく、実現して当たり前の普通の生活だと思うのだが。


眠りは社会生活の犠牲になり易い。

睡眠を妨げる住環境は常態化している。

睡りはストレスの発露にもなってしまう。

何故か。

それは、眠りというものが弱者だからである。

踏みつけ易い対象だから、自他によって降伏させられるのである。


私は心の中のどこかに文明を拒否したくてたまらない自分がいるのを知っている。眠りが自分にとって、食事や排泄や絵を描くことと同じぐらい原始的な行為であると受け入れて、そうあるべきだと願っている自分を知っている。だから眠りという行為が粗悪だと、それを文明のせいにしたいのだろう。


満足のゆく睡眠が得られない日は、いつもこう思うんだ。

ああ、早く地球へ帰って、ぐっすり眠りたいって。


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「今年は葉書を書くことが多くなりそうな気がする」と、年の初めに思ったのです。まさに漠然と。それまで自分が年間でどれほどの葉書や手紙を書いていたかなど記録したこともありませんから、昨年までとの比較はできないのですが、印象としては確実に今年は書いた枚数が多い。漠然と思ったということは、もしかしたら生活の予知ではなかったかと、今にして振り返っています。


今までもちょっとしたメモ書きを添えて、郵便や宅急便を送り出すことはしていました(請求書にも…笑)。それが今年はこれまでよりも件数が増えそうな風だったので、どれだけ書くものなのか、一度枚数を数えてみようと思いたったのでした。メモ書き・葉書・手紙・絵手紙など全部をひっくるめて、今のところ120通。年内にもうあと数通書くとして、おおよそ月10通ですか…。


もちろんこの数字の中には年賀状や暑中残暑見舞い、個展のD.M.、個展後のお礼状等は入っておらず、これがレギュラーな年間での実数だと思われます。三日に一枚かような便りを書いているわけです。メールで済ませればいいことや、別段書く必要もないケースもあったかもしれません。一手間かける自分を、落ち着きの姿として確認したかったのが本当のところでしょう。


字を書くことは、絵を描くという行為とは全く違う。体も頭も別な回路を使っている気がします。絵から字へ移るとき、自然に転換があってそれで私の気分が入れ替わっていることがあります。つまりある種のけじめのようなものを求めて、私は字を書くことがあるわけです。それはキーボードを打つことでは得られない類いの変化なのでしょう。自分のことなのに解明がクリアでないところこそが「漠然と」なのですね(笑)。


字を書くことは、学生の頃は勉学に直結していて、純潔な領域にあったと思います。それがいつの間にか、手は鉛筆やボールペンを握らなくなった。字を書かなくなって、葉書や手紙と縁遠くなって、そういう生活は私の性分に反するから嫌だなと思う私がいて。それで書いている。厄介な自分に対する処方箋です。三日に一枚便りを書くことで、どこか安心な場所に回帰できるような、ささやかな期待を持っているわけです。


(*日記No.564 2012年12月12日掲載のリメイクです。) 


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