389 <ある画材屋の話し>
新装開店の初日にいそいそ出かけたら、あれっ?私がいつも買っていた類いの画材がゴソッと消えて無くなっている。聞けば、利益薄なので処分したのだそうな。「それにねえ、紙をチマチマ売っていたんじゃ、儲けにもならんでしょ」ときた。こんな店主の言葉を聞いて、応援しますよという絵描きさんは、まずいないだろう。おまけに店員さんをお客の面前で激しく叱るのだから、とても気まずい。極めつけはポイントのたまったカードを出すと、「もうこれ、扱ってないから」といってポイと投げて返す。まさにやりたい邦題。怒らない自分が不思議なぐらいでした。
帰り道でこの画材屋さんがそうは長くないことを悟った私は、あれこれ考えました。とどのつまり、この店主には画材に対する愛情はあったかもしれないですが、お客との間でその愛情を共有できないタイプの人でした。「儲からないから」という言葉の半分は、「売ったところで誰も感謝してくれないから」というニュアンスを持っていたと思う。厭世的な人ではなかったのですが、紙一枚売るのに、お客との間に人間関係まで築く必要はない、媚びへつらってまで商品を買ってもらうものではない。新装開店のときは、そんな自信や意気込みがあったのでしょう。
その少し後のこと。街の広報誌に、ひとつの記事が載っていました。市民が我が街を語る主旨のコラムで、かつて貧乏画学生時代にお世話になった画材屋のおじさんについて書かれていました。私にはそれがあの画材屋の、先代の店主のことだとすぐにわかりました。「おじさんは紙一枚でも、ニコニコして『いい作品を作りなさいよ』といって、奥から引っぱり出してきて売ってくれたのです。」読んで思いました。これは手厳しいな、と。その筆者はたぶん、画材屋さんに対して、何か感じてほしいところがあったから、戒めの意味合いを匂わせていたのでしょう。しばらくして、予感通り、画材屋はつぶれました。
簡潔には書けませんが。