490 <憧れのベイ・エイリア (下)>
来日の際に雑誌でヒューイの普段着をみたら、帽子はMLBのサンフランシス・ジャイアンツ(オークランド・アスレチックスではなかった)、ジャンパーはNFLのサンフランシスコ49ersのオフィシャルものだった。徹底した地元意識はその活動にも注がれ、ツアーには地元の先輩バンドであるタワー・オブ・パワーのホーンセクションチームを借り出し、80年代後半にそのタワーが絶不調に陥ると、マネージャーのミッシェル・ザーリンと組んでタワーの救済プロジェクトやアルバム制作にまで関わった。こうなるとやっていることがほとんどNPO法人だな(笑)。
ベイ・エイリアのバンドには、不思議とバンド間のメンバー移動や客演に拘りや敷居がない。ライバルバンドの間で平気でメンバーが行き来したり、ゲスト出演したりする。風土的なものか、ビジネス一辺倒でない内輪の自由闊達な気質が見受けられる。サウンドにしてもロックありファンクありラテンありカントリーありブルーズありフォークあり。それらが普段から自在にセッションやジャムで行き交っているから、作品に思いもよらない人選を発見できる。人種的にもヒスパニック系や日系ミュージシャンが混同してメジャーフィールドで活躍した珍しい地域だと思う。
ベイ・エイリアという磁場にいろんなミュージシャンが吸い寄せられるように集まってきたのは、きっとそんな生身の音楽の交流が可能な場所だったからだろう。もちろん様々な偏見や差別はあったに違いない。ただ、新しいものを柔軟に受け入れる気風と、肌の色に拘らない音楽性が育まれやすい土壌があった。だから人種も性別も混合したバンドが数多く生まれたのだと思う。結局ベイ・エイリアは音楽的な化学反応が極めて起きやすい土地柄だったのだろう。そんな中から地元意識の高いミュージシャンを多数輩出し、独自の美意識を持った名バラードが数多く生まれた。
タワー・オブ・パワーのエミリオ・カスティーオ(通称ミミ)が以前インタビューで語っていた。彼は元々はデトロイトの厳しい土地に住んでいたそうで、思春期に差し掛かる直前にベイ・エイリアへ引っ越してきたらしい。そこで彼が初めて目にしたのは、いろんな人種の子どもたちが一緒に公園で遊ぶ光景だった。それを見たミミは、なんて素晴らしい土地なんだろうと思って感動したらしい。ベイ・エイリアにはある種の理想郷があったと結論付けをしたら、言い過ぎだろうか。しかし彼らの音楽を聴けば、あながちそうでもない気がするんだな、これが。