535 <ビリー・ジョエルを越えて(上)>
翌78年『ニューヨーク52番街』からのシングル「マイ・ライフ」のミュージックビデオでは、いかにも軽いフットワークで裏通りを歩くビリーが滅法格好よかった。若いということはそれだけで大きな武器である。そして今思えば、次作の『グラス・ハウス』(80年作)が、ビリー・ジョエルの格好悪さの走りになっていたのではないだろうか。後年彼があれほど不格好に見える要因、つまりロックンローラーとしての自分への固執がこの作品に垣間見える。ただこの頃はまだよかった。81年の『ソングス・イン・ジ・アティック』は私が最も好きなビリーの作品で、ライブではあるがこの人のいいところが全部詰まっていると思う。
82年『ナイロン・カーテン』では社会派ソングライターとして世の注目を集めたビリーだが、どうにもぎこちない印象があった。普通にラブソングを書いていれば、幾らでも名曲が生まれそうな才能の持ち主なのに、無理矢理に反戦歌や不況を唄っているような創作姿勢に、もったいなさを感じたのは私だけではなかったと思う。労力をつぎ込んだ力作だったにもかかわらず、結果としてセールスは今ひとつだった。ビリークラスのタレントにも売り上げのノルマがあった当時のコロンビアレコードはさっそく次作を要求。来日時のなにかのインタビューで、レコード会社の自分に対する扱いについて、彼が遠回しに批判的な内容を語っていたことを思い出す。
若い頃に鬱病を煩ったほど繊細な彼が、おそらく大きなショックを受けたであろう作品が1983年の『イノセント・マン』だ。1年以上の時間をかけた『ナイロン~』が不振に終わり、たった6週間で全曲を書き上げたとされる『イノセント・マン』が大ヒットしセールス的に前作からV字回復した。彼ほどの豊かな才あるミュージシャンでさえ解析不能なポップ・ミュージックの魔力が顔を覗かせた瞬間だった。MTVの中で往年のロックンローラーよろしくシャウトするビリーを見るたびに、「この人、本当はブルース・スプリングスティーンみたいに見られたいんじゃないのかなあ…」と感じたものだ。表現と才能とセールスとの間で、ビリー・ジョエルに少しずつズレや軋みが見え始めた季節だった。