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567 <夢みる歌謡曲1970(中)>

今この21世紀に歌謡曲という言葉を使っても、ピンとこない世代の人が多いことでしょう。それというのも、歌謡曲というジャンルが現存するかどうかはともかく、その言葉が喚起するイメージは若い人達には容易に伝わらないと思います。家族と炬燵に入ってテレビの歌番組を見て、自分の好きな曲や歌手を待つ様は、現在形のものではありません。もっといえば核家族が定型化してゆく過程で、大家族時代の名残がほんのり残っていたわずか20~30年ほどの間に、狭い居間でテレビを囲んで花開いたささやかな娯楽文化だったのだと思います。家族が居間から個室へ離散し、果ては住居を共にしない時代になって、歌謡曲もまたその居場所を失い、遂には消えてしまったのです。


567 <夢みる歌謡曲1970(中)>_f0201561_1221522.jpg◯「経験」:辺見マリ

1960年代あたりから芸能界ではハーフのタレントが続々と登場するようになった。日本人的ではないが全くの外国人でもない。ルックスの微妙な立ち位置をブラウン管を通して見たときに、視聴者は珍しがって愛でたのだと思う。日本のメディアや観客がハーフタレント好きな風潮は今も昔も同じである。辺見マリも一目見てハーフとわかるルックスをしていた。色気を売りにした「経験」や次作「私生活」は3分間の淫らなソープオペラだった。粘るような色気で喘ぐように~やめて…~という唄い出しが大いに受け、ギャグにしたお笑いタレントも多かった。それを真似した子どもも多かった。そして誰もが必ず叱られた(笑)。このサイクルが定着した曲は間違いなく売れる。辺見マリもそうしてスターダムへ伸し上がって行ったが、如何せんその後の持ち玉がなかった。加えておかしな商売に引っ掛かったりヌードになったりで、一気に都落ちして行った感があった。最初に見た時にインパクトが強かった分、ピークは短いなという印象は当たっていた。子どもの読みを侮るなかれ、である。


567 <夢みる歌謡曲1970(中)>_f0201561_12214653.jpg◯「京都の恋」:渚ゆう子
ベンチャーズが日本においてぼちぼちその人気が下り始めた頃、思いもよらないところでその名前が浮上した。渚ゆう子の「京都の恋」の作曲者としてクレジットされていたのだ。当時はテレビで曲が唄われるとき、タイトルと作曲者名・作詞者名・編曲者名が概ね画面上に表記されていた。小学生といえどもベンチャーズの名前は絶大で、テケテケを知らない友達などいなかったぐらいだから、名前も知らない女性歌手にベンチャーズが曲を提供するなんてとんでもないことだった。そこらがモノを知らない子どもの悲しさで、「京都の恋」はベンチャースの既発曲に後から日本語の詞をつけたのだとは夢にも思わなかった。ああ!恥ずかしい…。京都の詩情が上手くメロディに表現され、渚ゆう子のスウィング感のある唄で、演歌でもなければ和製ポップスでもない、濡れたような質感のある歌謡曲が生まれ、見事大ヒット。このパターンで次作「京都慕情」も同様に大当たりしたわけだ。後年になって、彼女が60年代にハワイアンを唄っていたことを知って、あの歌唱スタイルに納得したものだった。


567 <夢みる歌謡曲1970(中)>_f0201561_12221774.jpg◯「老人と子どものポルカ」:左卜全とひまわりキティーズ

これも大流行りした曲。フランク・シナトラのシュビ・ドュビ・ドゥーをもじったのかどうかはわからないが、左卜全の訛り混じりのジジイ口調でいきなり「ズビズバー」と始まるもんだから、もう完全にブッ飛んだ。この時点で既にヒットも同然の曲だった。最初に見た時は唖然としたものなあ。子どもの健気な唄声と老人のボケたような唄声。そのどちらもが不安定で、それが妙に胸に響いてきた。一度耳にしたら忘れないようなメロディと歌詞。「やめてけ〜れゲバゲバ」というリフからもわかるように、間接的に高度経済成長社会の被害者として、老いと幼さに訴えさせた問題提起の曲だったのだろう。特筆すべきはやはり左卜全という強烈なキャラクターである。俳優として確固たる地位を築いていた老人が、一曲唄い通すのは無理ではないか?と思われるようなヨタヨタのリズム感で、子どもたちを巻き込んで揺れてしまうのだから、死ぬかと思うぐらい大笑いした記憶がある。しかしペーソスもちゃんと残っていて、終わった後にしんみりしてしまう。意図した企画だろうが、効果の大きさは想定外だったに違いない。老人力、恐るべし!
by ekakimushi | 2012-12-20 12:29 | 音楽えかきむし | Trackback | Comments(0)