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956 <悲しい別れ>

12月12日朝早く、中華の名店王中の中島さんが亡くなられました。
悲しい別れです。夕べ挨拶に行ってきましたが、かける言葉も出てきませんでした。
以下がお通夜と本葬の予定です。
親交があった方、王中のお客さんだった方、どうぞ最後の挨拶に行って差し上げて下さい。よろしくお願いいたします。

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中島 庸斗さん通夜・告別式
潮江福祉会館
所在地: 〒661-0976 兵庫県尼崎市潮江1丁目7ー1
http://goo.gl/wjtlkI
喪主 中島三由紀
お通夜 12月14日(水)19:00~
告別式 12月15日(木)10:30~11:30
お花等の受付・問い合わせ
セレモニー優輝
Tel 06-6430-7325
Fax 06-6430-7326
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昨年の6月に王中と中島さんについて、このブログで書いたことがあります。
今日はそれを掲載して、中島さんの御供養にしたいと思います。


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819 <中華料理店は夢を見る(前)>

JR神戸線の立花駅下車、線路沿い南側の道を大阪方面へ向かって8分ほど歩くと、七松線通りの踏切に。そこを右に(南に)20m下ると、広東名菜「王中」があります。手作り感を強く主張している外観は、お世辞にもスカ〜ッとしたセンスとは申しません(笑…すんません、中島さん!)。何やら曲者風、マニアック、わかる人にだけわかる、そんな言葉が浮かんできます。が、それはあくまで見た目だけの話し。気にせず扉を開けて中へ入ると、実に居心地のよい店内が貴方を迎えてくれます。

王中はこの6月10日でめでたく開店20周年を迎えた中華の名店です。このところ連日お祝いの酒盛りが続くこの中華料理店へ、私も先日お邪魔をしました。いや~、本当に楽しかった!貸し切りの宴会だったとはいえ、普通にお酒を飲むだけ、料理を味わうだけの人などほとんどいないのです。ギターにベース、簡易ドラムスに、パーカッション、アコーディオン(の原型の楽器)などを持参した人が、当たり前のように楽器を演奏し、唄とくれば、ジャンルも全く関係なしで、店内のお客さんが次から次へと持ち歌を唄う。もしもいちげんさんが入ってきたら、何の店かと思っただろうな(笑)。

実はこんな様は、王中ではそう珍しいことではなくて、夜になるとギター片手にいい気持ちで唄っている人が結構います。日によっては、お客さんのミュージシャン率が異様に高いこともあります。そのわけは、店主の中島庸斗さんからしてミュージシャンだからです。その昔、ナッツベリーファームという人気バンドのフロントマンとして鳴らした方で、私がお邪魔した日も、かつてのメンバーと共に数曲を演奏してくれました。なんでも、唄いたくて仕方がなかったとか!

このブログを読まれて興味を持たれた方、悪いことは申しません、迷わず王中を訪れて下さい。あ、れっきとした中華料理店なので、ちゃんと注文をお願いしますよ!ライブハウスではないので(笑)。と、ここまでが王中のベタな紹介です。次回は私が感じるところの、王中の真なる魅力について、熱く語りたいと思います。もうすでに熱いかもしれませんね。

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820 <中華料理店は夢を見る(後)>

1991年3月から1997年4月までの6年間を、私は尼崎市で暮らしました。その間には例に漏れず1995年1月の阪神淡路大震災にも遭い、当時住んでいたボロ屋は見事に大破しました。今もその頃の暮らしを、懐かしく思い出すことがあります。私が住んでいた塚口から王中のある立花までは、距離にして約3kmほど、自転車で20分もあれば通えるところにありました。当時の王中は、今の場所から3軒ほど北にあって、厨房周りのカウンター席がメインでした。まだネットが充分に流通していない頃に、3kmも離れたこのお店を何故知っていたかというと、王中のすぐ近くに、知る人ぞ知るアーティストたちの共同アトリエがあったからです。

一度そのアトリエを覗きに行った際に、そのまま王中へ連れて行ってもらいました。その頃私は、会社に通いながら、夜や休日を絵に費やす生活をしていました。正直に言うと、創作活動という意味に置いては、かなり狭い人付き合いしかなかった。一線で活動する創り手たちと同席して話しを聞くだけで、私の枯渇した心にどれほどの潤いがあったことか。そんな作家たちの身勝手な会話を、厨房の中からニコニコしながら聞いていたのが、店主の中島さんでした。ああ、ここはいいお店だなあと、素直に思えました。

その後、音楽バンドの活動をしている友人繋がりで、再び王中の名前が耳に入ってきました。彼らは生まれも育ちも尼崎、まさにネイティブのアマガサキンチューで、十代の頃から音楽活動をやってきた人たちでした。裏日本の寂れた港街から出てきた根無し草のような私とは全く違う、地元と付かず離れずの人間関係を、ずっと継続してきた人たちでした。そんな彼らから名前の出るお店が王中だったのです。同じ地元で音楽活動をし、人生の先輩として少し先を生きている中島さんを、彼らはどこか憧れを持って見ている気配が感じられたものです。まるで、野球部の中学生が、甲子園に出ている高校生を見るような眼差しでした。

2008年の秋に、とあるライブの打ち上げに加えてもらって、私は王中にいました。その日も例の如く、夜な夜な宴会が繰り広げられていたわけです。そのとき何かの話題の拍子で、厨房の中島さんから「俺も絵に描いてほしい」という言葉が飛び出しました。そのことが私の耳にずっと残っていました。実は以前王中のH.P.に、お店の絵が掲載されていました。誰が描いたものかは知らなかったですが、とてもいい絵でした。それを見て「あ、俺も描きたい」と思っていたのです。もう10年以上も前の話しです。意は合致した!描くぞ、そう思ってから更に何年も経ちました。

結局絵が出来上ったのは、2014年の6月。随分遅くなりましたが、中島さんと、奥さんのみゆきさんは、たいそう喜んでくださいました。いろんな創り手がいた、あの共同アトリエはもう今はありません。私が一人で悶々と絵を描いていた塚口のボロ屋は、駐車場に変わりました。尼崎でバンド活動をしていた若手は今や50代後半、いろんなところへ散らばってゆきました。しかし王中へ行けば、全ては元のまま戻ってくる気がするのです。王中の席につくと、知らない過去の話しも、ついこのあいだの出来事のように共有されます。お客さんたちは、広東料理と一緒に、自分の見た夢を注文するのです。だから、出来あがった料理は、あんなに美味しいのです。

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by ekakimushi | 2016-12-13 17:43 | 絵のこと | Trackback | Comments(0)