957 <創造と批評>*
批評や否定自体を批評したり否定する必要はない。参考になるし、創造のきっかけになることもあるからである。特に、あるべき状態と比べての現状へのダメだしは、それ自体に独自の視点が必要なことも多いし、意義のある営みだと思う。
しかし、批評や否定は、最終的には創造にはおよばない。創造することが持つ、ひとつひとつの努力が積み上がって有機的な肉体へと変化していく、あの充実がない。それは、むしろ、切り刻んだり、つぶしたりすることに似ている。しかし、そもそも肉体がなければ料理もできないのだ。
ツイッターを、RTしたり、コメントしたりして、一種の社会運動のメディアとして使うという機運は、一時期確かにあった。それが意味のないこととは思わないが、このところのその手のツイートには、すっかり辟易した思いがある。そこには、創造のための工数の積み重ねがない。
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あくまでツイッター利用者の傾向について書かれている内容なので、少しニュアンスが違うのですが、私の見解を。
ゼロの状態から何かを生み出す創造という行為は、それを餌にああだこうだというだけの御託とは決して同等ではないです。何もないところから創り上げられたものをむしゃむしゃ食べて、旨いまずいを唱えるなら誰にでも出来ます。しかもそれは何の責任も負っていない行為です。茂木氏がいうところの有機的な肉体を創るに値するだけの意欲や工夫がないとき、その批評は聞くに足らないと思うのです。